01 - まだ起動してもいないのに

知らない鳥が鳴く朝。私は電話とメールを入れ,LINE に返信し終えるとそのまま布団に入った。枕元に悠然と立つキングペンギンのぬいぐるみは,その丸々と太った白い腹を見せつけ,私の心を穏やかにさせる。

「おかゆぐらい食べたほうがいいんじゃないか」それまでチルステップの軽やかなメロディーを流していた EeePC が私に言った。「腹が空っぽだと薬も飲めないだろう」

EeePC はへっぽこな性能を工夫で補う私のアシスタントだ。しばらく休眠していたが最近になって息を吹き返し,今も相棒として活躍している。その華麗 (?) な復活劇は「EeePC と Emacs と○○と」に書いた。

「食べたくない」と私は返事をしたが,このまま眠ると次に起きたときに本当に動けなくなりそうなので,重い身体,物理的にはたぶん軽い,を起こして冷蔵庫に向かった。昨晩作っておいたおかゆ。レトルトのおでん。それに実家から送ってくる梅干し。玉子はたぶん口に入れても戻してしまうので,大根とじゃがいも,こんぶとこんにゃくにつゆをかけ,茶碗のおかゆと一緒にレンジに入れた。


スピーカーから流れる音楽は狭い部屋をやわらかく包む。平日にのんびりした食事。それをときおり中断させる,ヘタな弦楽器のような咳込む声。食事を済ませて処方された薬を飲む。歯を磨き,汗を吸った下着を替えた私は一仕事終えたように布団に入る。私の具合を心配するメッセージが届く。相手に心配させないよう明るい内容で返事をし,目を閉じた。

目を閉じたが。

なかなか落ち着かず,寝つけない。身体はこんなに苦しいのに。何かに追われているような,イヤな焦りを感じる。

「ねえ」私は EeePC を呼んだ。「何だ?」「気分転換になることない?」「気分転換?」「私が眠くなるようなもの」「それなら」「ただし実践ロイヤル英文法は不可」「…なぜだ」「頭使えないから」「じゃあそのまま横になっていればいい」「気分を紛らわせたいんだよ。わかるでしょ?」「わからんな」

私は USB ケーブルを抜くと,EeePC を腹の上に乗せる。負荷をかけていないせいか,さほど熱くない。「キーボードカバー,ボヨボヨだね」「ボヨボヨってなんだ」「へにゃへにゃになってるってこと」「余計わからん」

頭がもうろうとするなか,私は Emacs で適当にキーボードを叩き,画面分割したり,eww を起動したりする。

それは全くの偶然だった。「ねえ,チュートリアルってどうやって起動するの?」

なぜそんなことを言ったのか。ぼんやりした頭が奇妙な回路を結んだのかもしれない。「C-h T」EeePC は理由も聞かず,ただ返事をする。「T って表示されただけだけど」「すまん。起動画面でしか通用しない方法だった。 "F1 t" だ」

私は EeePC をかたむけて F1 キーを探し,F1 と T を押した。

Emacs 入門ガイド.  本ファイルの著作権については最後を御覧下さい。

私は目を丸くした。「あれ?どうして日本語なの?」

「Emacs のチュートリアルには昔から日本語版もある」「英語版しかないと思ってた。前に見たときは英語だったから」「ロケールが英語だったからかもしれんな」「日本語のもあるならもっと早く言ってよ」「今まで君がチュートリアルを気にしたことなんてないだろう?」「それはそうだけどさあ」

私は画面を適当にスクロールさせる。「すごい。読める」「日本語なんだからあたりまえだろう」 "My mother language is English." "You're kidding. Don't you remember your TOEIC score?" "990." "Whew!"

「…冗談はさておき」「うむ」「せっかくの機会だから通してやってみようかな」「身体のほうは平気なのか?」「横になってれば大丈夫。疲れたらやめるし」「無理するなよ」「みんな口だけは同じこと言うよね」「私は本気だ。私より先に君が壊れては約束が守られないからな」「約束?」「私を壊れるまで使うと言っただろう」

「だから私は決めた」「何を?」「君を壊れるまで使おうと思う」

「うん。言った」

「だから私が壊れるまでは,君が無事でいてくれなくてはな」

「…」

私は無言で EeePC を机に置き,布団をかぶった。「やらないのか,チュートリアル」

布団で顔を隠したまま私は答えた。「うん。ありがと。身体が良くなってからやることにした」「そうか」「あと」「あと?」「私,君が壊れるまで,元気でいるから。約束する。だから君も壊れないよう頑張って」

EeePC は少し時間をおいて答えた。「私に対応する OS が先になくなるかもしれんな」私は布団から顔を出す。「ネットにつながなければ平気でしょ。現役のコモドール 64 とか,あと Apple の Lisa とかあるくらいだし」「年寄りもいいところだ」「まずは 10 年生きのびたことだし,次の 10 年を目指しましょう」「善処しよう」

それからいつものように EeePC の電源をつけっぱなしにしたまま私は目を閉じた。そうして穏やかな気持ちのまま,夢の中へ身体を溶かしていった。



参考 1: 2016 年時点で現役のコモドール 64

参考 2: 2018 年現在も Apple の Lisa で運営されている Web サイト



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