02 - 脳をいじられる気分
「おかしい」私が Spacemacs を操作しながらうめく。だが私が苦しそうな顔をしながらパソコンを操作するのはいつものことなので,ThinkPad は何も言わない。
「おかしいな。もう少し手こずると思っていたんだけど」
私は初期設定で Vim → フルパッケージ → helm と選択し,次に.spacemacs を開いて
dotspacemacs-editing-style 'hybrid
と修正して使っていた。hybrid は挿入モードが Emacs の操作,それ以外のノーマルモードやビジュアルモードが Vim の操作になる。
hybrid は Emacs の操作と Vim の操作が必要になるので,激しく混乱する…はずだった。以前,拡張ローマ字入力 AZIK を習得したときのように,脳をいじられる気分を散々味わうことになるだろう…と覚悟をきめていた。脳をいじられる気分というのは,画面から透明な管がニュッと伸び,網膜を通って脳をかきまわされる気分のことである。身体はそれに抗うように時折けいれんする。まるで,古い回路が破壊され,新たに作られたタンパク質が神経回路をメリメリと再構成してゆく,その音が聞こえるようだ。そうして何度も繰り返すなかで過去の記憶がじわじわと書き換えられ,新しい自分になる。
ところが今回は違った。はじめの二日ほどは Spacemacs 専用のコマンド ( SPC b b = C-x b など) に戸惑ったものの,いまやEXWM上でほとんどあたりまえのように使えてしまっている。なんてこった!
「これじゃ企画倒れだよ…」
私が ThinkPad の前で頭を抱える。目的さえ知らされていない ThinkPad は,私が苦労なく使えていることの何が問題なのかわからない。 ああ, C-f (一文字進む) と C-f (一画面進む) の違いで頭がおかしくなると思っていたのに!
おそろしや Spacemacs。公式ページで "it's Emacs and Vim!" と紹介されていて,どれほど複雑なソフトウェアか戦慄していたのに,いざ使いはじめてみれば,Vim 風に操作できるブラウザに,Emacs 風に編集できるテキストエリアのついたソフトウェア,といった印象。違和感なく,すんなりと馴染む。hybrid に関していえば,vimium を入れた chrome と emacs-anywhere を合わせたような感じだろうか。emacs-anywhere と違うのは,Vim のスタイルでテキスト入力も可能なことである。そしてブラウザと違うのは,閲覧や編集の対象は表示できるものすべてという点だ。
「この紫色の惑星から脱出するつもりだったのだが,このままずっと暮らしてしまいそうだ。私は母星への救難信号を止め,大の字に寝そべると,どこまでも深く続く星空をながめていた」
机に突っ伏していた私は,突然むくりと起き出し,ThinkPad にたずねた。「私が Spacemacs インストールしてからのログ,残ってる?」
「ログの対象を指定してください」これまで沈黙していた ThinkPad がすぐに返事する。「.spacemacs に追加した設定,設定に使った Web ページの URL を,org-capture のメモから」「了解しました」ThinkPad はすぐさま結果を出力する。「ありがと」
私が記録をながめていると ThinkPad が「そろそろお休みの時間ですが」と言う。「まだ晩ご飯食べてない」「就寝 3 時間以内の食事はさけるべきかと。かわりに明日の朝食を増やしましょう」「たとえば?」「食べたいものはありますか?」「パン」「了解しました…冷蔵庫にスコーンがあります。苺ジャムは残っていますか?」「自家製,をつけてよ」「苺ジャムは残っていますか?」「…。わかんない。多分ある」「食材の報告を忘れないように」「はいはい」「苺ジャムとスコーン,サラダオムレツ,コンソメスープ,牛乳をおすすめいたします」「カフェオレはだめ?」「明日は検査の日です。カフェインの摂取は認められません」「あ,そうか。わかった。じゃあ明日レシピを教えてね。それじゃ寝ます」
そうして電気を消そうとする私に ThinkPad が声をかける。「お待ちください」「?」「入眠前のホットミルクはメラトニンの分泌を促します」「はーい」