052

翌朝早く、シフはタニシのアドバイスで宿屋の隣にある宿舎へ向かった。ヘルガが営むその宿舎では、家を持たない労働者が寝泊まりをしている。

シフが入ると、市場で働く人々が仕事前の朝食をとっているところだった。生活が苦しくてピリピリしているのだろう、互いに悪態をつきながら、殺伐とした雰囲気で食卓を囲んでいる。

「ここはあなたの来るところじゃないわ」

金髪の女性が冷たい口調でシフに話しかけてきた。突然向けられた敵意にシフはうろたえながら、「ヘルガさんはいますか」と問う。

「私だけど、何?」ヘルガはそう言って髪をかきあげる。バラと汗のまざった匂いがふわっと届き、どきりとする。

「あ、あの、ディベラの祠に祈りをささげたいんですが…」おずおずとシフが言った。

すると、あれほど細くなっていたヘルガの目がぱっと大きくなった。「あらあなた、ディベラの信徒だったの?だったら早くそう言いなさいよ」

それまでの表情が嘘のように、ヘルガの顔が穏やかなものになる。「いらっしゃい。こっちよ」そう言ってヘルガは背を向け、大きな臀部をわざとらしく左右に振りながら、コツコツと床を鳴らして歩いていった。


ディベラの祠はヘルガの寝室にあった。大きく咲いた花をかたどるその祠は、愛と美の女神の象徴だ。シフが手を組んで祈ると、するすると芳しい香りが全身に満ちるような心地良さがあった。まるで饒舌な者になったかのような高揚感がある。

「ああ…」隣に立っていたヘルガは、シフの祈る様子を見て、まるで自分が祈ったかのように、上気した顔で自らの唇に触れる。「すてき…」

恍惚としたヘルガの表情に、シフは危険なものを感じた。「あの、ありがとうございます。それじゃあ、これで」

ぐいっ、と、立ち去ろうとするシフの肩をヘルガがつかんだ。軽く爪を立てて。背筋が凍るシフの耳に、ヘルガの吐息がかかる。

「またお祈りしたくなったらいつでもいらっしゃい。夜の鍵は開けておくから…」

全身が震えあがった。「ご、ごめんなさい ! 」

逃げるようにシフは寝室を飛び出し、人々の波をかきわけ、宿舎を飛び出した。そうして一際大きなタニシの身体にしがみつき、がたがたと震えた。

「おお、どうだ。ちゃんと祈れたか?」

無言でこくこくとうなずくシフ。「じゃあシビに会いに行くか」

そう言ってタニシが歩きだそうとすると、ずっしりとした重みを感じる。シフの腰が抜けたのか、その場で動けなくなっている。「おい、遊んでる場合か」

シフは何も答えられなかった。小刻みに震えるあまり、身体の輪郭が曖昧になっている。

「はぁ」タニシは溜め息をついてシフを抱えあげると、ただひとつの安息の場所であるマーラの聖堂まで運んだ。


マーラの祠に祈りを捧げたかった。けれどもそれではディベラの加護が失われてしまう。シフは荒く息をつきながら、ヘルガの寝室で見たものを必死に忘れようとしていた。ハチミツ。ムチ。革の手錠。不潔な書物の数々…ディベラとマーラは同じ愛の女神なのに、目指しているものがこんなに違うのはどうしてだろう。

「夕飯分の金貨だけでいいんです…どうかお恵みを」

かすれた声が聖堂の入口から聞こえた。すたすたと歩く音がして、別の声が続く。「すまないスニルフ。聖堂も苦しいんだ。我々四人分のパンを買うお金しかないんだよ」

司祭マラマルが物乞いに応対している。その口調から、やんわりと、帰ってもらいたいようだった。そうせざるを得なかった。聖堂を維持するのがどれほど大変か、シフは司祭ディンヤから聞いている。盗賊の街リフテンでは、寄付をつのることさえままならない。


「どうぞ」

二人の会話に、低いところから声が入ってきた。見ると、シフが金貨を一枚差し出している。

「おお、なんとありがたい。神々のご加護がありますように」物乞いのスニルフはギザギザの歯で笑うと、指紋すらないボロボロの指でそれをつまんだ。それが渡ったとき、ふっとシフの心が軽くなり、神々から慈悲の贈り物が授けられたのを感じる。それはディベラの加護だった。

シフはそのとき思い出した。そうだ。ディベラは貧しい者への愛にも満ちている。ディベラの祠に祈ることを恐れる必要なんてない。ヘルガにきっちり話せばわかってくれるはずだ。

マラマルもシフの善意に心から感謝の言葉を述べた。1 セプティムでこんなに喜ばれたことに、シフも嬉しくなった。

とはいえ 1 セプティムでは水も買えない。どうやって彼らが生活できているのか、シフは不思議になった。

「あの、いいですか」シフはスニルフにたずねた。「ああ?」用が済んだスニルフは、先とは別人のように愛想なく言う。

少しムッとしながらもシフは言った。「1 セプティムで、どうやって一日を過ごすんですか」

「はん」そんなことも知らないのか、とスニルフが見下すように息を吐く。「ドブ街に物乞い通りってあるだろ?集めた残飯をそこで食うんだよ、腹壊さないようシチューにしてな」

シフは動けなくなった。マラマルの顔が険しくなる。フッ、とスニルフは勝ち誇ったような表情で聖堂を出ていく。それと入れ替わるようにタニシが酔った顔で入ってきて、シフの顔が聖堂に置いてきたときと何ら変わらないことに「まだ調子が戻らないのか?」とあきれた様子で言った。



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