001
降りしきる赤い雨はこれまで流してきた人の血か。黒い雷雲が巻く渦の中心には,かつての金剛閣 (こんごうかく) が高くそびえている。だがその天頂からは際限なく重い煙が吹き出し,この世界を人の住めない暗黒の土地へと変えてゆく。
「う…」
煤けた衣をまとうバツの横で,シンが目を覚ました。
「シン ! 良かった…」涙ぐんだ顔のバツはすぐさま水筒を取り出し,シンの口に含ませる。だが中身はなく,わずかな水滴が唇を濡らしただけだった。
自分の無力さにバツが唇をかむ。
「なんだ,まだ逃げていなかったのか…ぐっ」鈍い痛みにシンの表情が険しくなる。「動かないで,傷口が開いちゃう」手を握り,震える声で話すバツ。つかのまの喜びさえも,長くは続かないだろうことは,その息が弱まっていることかも感じられた。
「すぐ助けが来るから…それまでしっかり…して」バツはムリヤリ笑顔を作る。けれども内からこみあげてくるものが顔をゆがませてしまう。
わかっている。もう手遅れなのだと。それでも心のどこかで奇跡を信じている。それにすがらなければ,もはや立ちあがることさえできないほど,バツは憔悴しきっていた。
なぜ力のない自分が生きのびているのか。バツよりも強かった仲間たちは次々と倒れ,最後の,そして最も大事な仲間の命さえも失われようとしている。
ガラッ。
石の崩れる音がした。反射的にバツの身体がこわばり,耳をすませる。わずかに話し声が聞こえた。その声は人のものではない。異形の者。その群れが近くにいる。今は倒れたガレキに隠れるようにしているが,引きずってきた血の跡が外まで続いている。見つかるのは時間の問題だった。
「…ここは俺がなんとかする。お前は逃げろ」
シンの小声にバツが振り返った。「そんな。無茶だよ。こんな傷で」
怯えきった表情のバツ。それを安心させるように,シンはふっと笑顔を見せた。
「お前は足手まといなんだよ。いつも」
そう言って,バツの頭に血まみれの手を置く。
お前は足手まといなんだよ。それがシンの口ぐせだった。臆病で,弱くて,頭が悪いバツ。その尻ぬぐいばかりさせられてきたシン。うんざりすることもあったが,不思議と嫌な気持ちはしなかった。
それは…。
「…」
これまで幾度となく戦いに敗れ,多くの仲間を失っても,それでも何とかバツだけは守ってきた。
けれども,それは今回で最後になりそうだ。
「俺が時間を稼ぐ。その間に,できるだけここから離れるんだ」「…やだ。ここで私も戦う」
「ぐっ」言うことを聞かないバツに,シンは渾身の力で身体を起こし,言う。
「俺の命をここで無駄にしないでくれ。…たのむ」
それは命を失いゆく者の,別れの言葉だった。バツはこらえきれず大粒の涙を流す。声を押し殺し,シンの胸に顔をうずめ,すすり泣いた。それを抱きよせようとする傷だらけの身体。だが背中に腕を回す力さえも,残されていない。
「もし生まれ変わりがあるのなら,もう少し平和な世界で,お前と暮らしたかった…な」
ガレキの間をはいつくばるようにして,バツが離れてゆく。それが見えなくなったのを確認してから,シンは大きな声で叫んだ。
「臆病者の魔族ども ! 俺が相手になってやる ! かかってこい ! 」
その声はバツにも届いた。一瞬,身体の動きが止まったが,無心で手足を動かした。
やや時間があって,喧騒と轟音が響き,そして聞こえなくなった。
バツは地面に水の跡を点々と残しながら,それでも決して振り返らなかった。
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