004

なんてこった。

一ツ目の下級魔族,クロメにとって,それは千載一遇のチャンスのはずだった。

力のないクロメが生きのびるには,無垢 (むく) な人間に取りつくしかない。だがそうした者は他の魔族どもに次々と狩られ,ほとんど姿を消してしまった。わずかに残った人間も,もはや魔族と見分けがつかないほどに心を失っている。

このまま自分は無力な落ちこぼれとして地べたをはいつくばっていくしかないのか。

そんなとき,イバラの陰に光を見た。痩せてはいるが,なんともうまそうな肉だった。これをわがものとすれば,やつらを見返すことができる。

そのはずだった。


『おい,起きろ』

頭の中から声がする。しだいに視界が鮮明になっていく。

「… ! ! 」

はっと我にかえったバツが,あたりを見回す。生きている。自分はまだイバラの森にいる。

ぞくっ。

頭から背中にしびれるような感覚があった。

そうだ。私はあの魔族と契約し…

『そうして俺のあやつり人形になったわけだ』

「わっ」大きな声にバツが飛びのく。周りを見てもやつの姿はない。だが確かに聞こえた。耳元で。いや,もっと内側,まるで…

『頭のなかから話しかけられているって?』

「ひっ」くすぐられるような気持ち悪さに,バツが耳を抑えてうずくまる。『むだだ。俺の声から逃れることはできん。お前の頭に住みついたからな』

「頭…だと…」『そうだ』「今すぐ離れろ」『無理な相談だ。俺とお前は一つになったからな』

ひとつ。そこでようやくバツは自分の身体を見る。

片腕から胸にかけて,黒い根のようなものが網の目をえがき,うずく。その感覚は首から頭まで続いている。おそらく身体の半分近くがあの魔族のように染まってしまったのだろう。

ふいに,むずがゆさをおぼえ,へその下をかいた。ざらつきがある。見ると,何か模様が浮きあがっている。腕に張られるような不規則なものではない,それは…。

バツの身体から血の気が引いてゆく。

『ようやく自分の立場に気づいたようだな』

それは,魔族に魂を売った人間につけられる呪いの印だった。

『ようこそ,魔族の世界へ』


「嘘だっ ! ! 」


両手を叩きつける。何度も。片方の拳に赤い血がにじむ。だがもう片方から流れたのは紫の血だった。つきつけられる残酷な事実に呆然となる。

『力が欲しいと言ったのはお前だろう?』「違う」『だから力を与えた』「違う ! 」『人の身では決して到達しえない,地獄の力をな』

「だましたな…」歯をきしませ,震える声で言う。『騙してなどいない。お前は力を求めた。俺はさずけた。無敵の力だ。人は滅んだ。魔族になって何を後悔することがある?』

「私は人間だ ! 」

頬を涙がつたう。

だがそれも片目だけだった。

驚いたバツ。もう片方の目に手をやる。ぼやけている。いや,ぼやけているのではない。見たこともない文字がびっしりと浮かんでいるのだ。

『それが俺の見ている景色だ』「お前の…?」『そうだ。お前の片目は俺のものになった。これが俺にしか見えない,この世界の真の姿だ』


ガサッ。

背後で物音がした。振り返ると,異形の姿をした魔族が立っていた。



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