002
太陽は厚い雲に覆われその姿を見せることはない。ただ,わずかに届く光,特に明け方のそれは魔族の動きを鈍らせる。
イバラの樹々が生える暗がりのなかで,バツは風雨にさらされた布のように,力なく幹によりかかっていた。涙も声もかれはて,抜け殻となった身体はイバラと同化し,うつろな目をどこへともなく向けている。
一人になってしまった。…本当に一人になってしまったのかもしれない。この世界で。最後の一人。シンが託してくれた,何の価値もない命。それだけが残った。
自分だけが生き延びて何になろう。もはや魔族に抗するすべはない。ひっそりと生きてゆくのか。どうやって。みじめに。魔族に怯え,ただ一人きりで。そこにどんな意味があるのか。
シンの笑顔が浮かび,枯れていたはずの涙が一筋,頬をつたった。
『そうしてのたれ死ぬつもりか』
甲高い,それでいてガラガラな声が響いた。
「 ! ! 」
思いとは裏腹に身体は守りの姿勢をとる。腰に下げた剣の柄をにぎり,あたりを見回した。
『ここまで生き延びたのがどんなやつか見てみようと思ったら,いたいけなガキじゃないか』
それは耳元から聞こえた。飛びはねるように距離をとり,目を向ける。
目が合った。いや,目と合った? もしくは,目に会った,か。
ウニのような触手だらけの身体に,黒く,大きな目がひとつだけついている。魔族だ。剣を抜き,刃を向ける。だがその手はカタカタと震えている。
『俺が怖いのか?ハッ。よくここまで生きられたもんだ。幸運の女神も景気が良すぎやしないか?』
「う,うルさイ。だマレッ」バツが言い返す。それは泣きすぎたためか,恐怖か,緊張か,声の裏返った弱々しいものだった。
『はっはっは。俺が怖いか?はっはっは』黒目の魔族は笑い声をあげながら近づいてくる。
「と,とマレッ,くるナっ…それイジョウ,近づイたラ,き,斬る」
『斬る?俺を?そんな何も斬ったことのないような綺麗な刃でか?』
バツの手がさらに震える。読まれている。まだ自分が魔族を斬った経験がないことを。手に力が入らず,剣がこぼれ落ちそうになる。
このままでは戦いにすらならない。むざむざと魔族の手にかかるくらいなら。
バツは刃を自分に向けた。
『おい。俺と取り引きしないか?』
魔族が急に不思議なことを言った。
きょとんとした顔になるバツ。と,その言葉で我に返ったのか,力強く剣を握りなおした。
「ふざけるな。誰が魔族の言うことなど」
『まあ聞け。あいにくと俺はお前を食えない。口がないからな。お前の身体を貸してほしい。代わりに力をやろう』
「チカラ…」『そうだ。『過去を変える力』,とでもいえばいいか』
過去を変える。
その言葉はバツの脳裏に様々な情景を呼び起こした。仲間との思い出。笑顔。怒り。涙。喜び。嫌な思い出さえも,なつかしく,そして遠くのことのように感じる。
魔族の恐怖。血。絶たれていった希望。
なまぬるい風ばかりが吹く荒野。
そして身体にわずかに残る,シンの感触。
– もし生まれ変わりがあるのなら,
もう少し平和な世界で,お前と暮らしたかった…な。 –
バツは黒目の魔族を見すえて言った。
「その力で,魔族を倒すことはできるのか?」
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