005: magit-status
恐怖でバツが腰を抜かす。これだけ騒いでいたのだ。気づかれるのも当然である。
ぶらさげた武器をひきずりながら魔族が近づいてくる。猛烈な悪臭にバツは後ずさりをする。どうして今まで気づかなかったのか。自らの不注意を後悔しても手遅れだ。
どっ。背中が樹にぶつかった。声も出せず,まさに蛇ににらまれたカエルのように固まっている。ここまでか。
「…」
わずかな静寂。
と,魔族はきびすを返して離れていった。
何が起きたのか。動悸がおさまらず,胸に手をあてる。
『食ってもうまくないからだろうな』クロメが言う。『ことに,魔族に魂を売るような卑怯者はな』
ぐっ。バツが唇を結ぶ。『ひどい味だっていうぜ。何日もえぐみが取れないんだとよ』
魔族に魂を売った卑怯者。その言葉を何度も反芻 (はんすう) する。
魔族にさえも見向きもされないほど私は落ちぶれた。
何のために?
「…力の使い方を教えろ」バツは低い声でぽつりと言った。
『力?』「過去を変える力だ」
『いいだろう。黒い方の手で剣を抜け。そして俺の言う通りに呪文を唱えろ』
そう言われ,自分が武器を持っていたことをようやく思い出す。柄を握り,鞘から剣を引き抜く。ずるり,と不快な音がした。
禍々 (まがまが) しく変色した剣。かつての輝きはみじんもなく,まるで生きているように蠢 (うごめ) いている。いや,生きているのだ。柄から紐のような管がのびて,バツの腰へとつながっている。尻尾のようだとバツは思った。魔族になった自分にお似合いだ。
バツが剣を持ち,正面で構える。
『お前は何を斬るつもりだ?』クロメがあきれたように言う。「なんだと?」
『斬るのはお前のカラダだ』
さも当然のように残酷な言葉が放たれ,バツの背筋がこわばる。
それが,地獄の力の代償なのか。
『なあに。怯えることはない。俺の言うとおりにすればいい』
クロメが力を解き放つための持ち方を指南する。両手を前に出し,剣を横にしたまま,黒い手で柄を,刃の先端を人の手で持つ。バツの身体と剣で十字の形が描かれた。
『刃で指を切れ。一滴でいい。そうして剣が光ったらこう唱えるんだ。 C-x g
』
「…」
バツの顔が険しくなる。
『どうした?早くやれ』「…」『まさか,自分で切るのが怖いのか?』
「ち,違う ! 」口では否定するバツ。だが赤くなった顔はクロメの推測が正しいことを示していた。
「…」再び顔をひきしめ,大きく深呼吸をする。
覚悟を決めて刃をなぞった。
「痛っ」
思わず構えを解いてしまう。人差し指が切れ,血がにじんでいる。
『おい,それじゃあダメだ。やり直し』
「…まさか,呪文のたびにこれをするのか?」ひるんだまま,背筋の曲がった姿勢でクロメにたずねる。
『当たり前だろう』
「くっ」仕方なく剣を構えなおす。改めて呼吸を整える。
そうしてやや時間をおき,ちらりと目をそらして言った。
「…事前に血を溜めておいて,必要に応じて使う,とかはできないのか?」
『早くやれ ! 』
「はい ! 」
中指で剣をなぞる。痛みで反射的に身体が縮もうとするのを,今度は全身に力を入れて耐えた。
何かに反応するように腹部の呪印が光る。そしてそれをはるかに凌駕するほどの剣の輝き。
『今だ ! 呪文を言え ! 』
クロメの言うまま,バツは叫んだ。
C-x g
突風が吹き荒れた。イバラの樹々が激しく揺さぶられる。
まばゆい光の筋がいくつも剣からあふれ,水が流れるようにバツの周りを自由に舞う。
目がくらむバツ。その前に見慣れない文字が浮かびあがった。
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