023

「そんで大川の橋にかかったらよ,バツがションベンもらしながら『洪水だ !』って叫んでるわけよ。あれがなかったらな,俺ら全員流されてたな」

「違いねえ」

「だーっはっは ! 」

虎の像が飾られた小五院 (しょうごいん) の広い本殿は,宴会の様相を呈している。山の民から小五院守護,街の人々にいたるまで笑顔であふれている。

その中央に座す小五院の張子 (はりこ)・鏑穂 (かぶらほ) は,魔族が退くまで結界を張りつづけていた。体力の消耗も激しく,また失われた命に心を痛めながらも,人々に喜びの表情が浮かんでいることに救われていた。

「お張子さんも飲めや」焔丸 (ほむらまる) が杯に並々と酒をそそいでくる。「やめんか ! お張子様に無理強いする者は許さんぞ ! 」

焔丸を怒鳴りつける彌分 (やぶ) に苦笑いする鏑穂。酔うと結界の力が弱まるので,体力も消耗したこの状況では酒に口をつけるわけにはいかない。

「焔丸殿も達者なようで余は嬉しいぞ」そう言って酒を注ぎ返す鏑穂。

「お張子様,このような蛮族にくれてやる酒などございません」うろたえる彌分の前で焔丸は一気に飲み干し,「かぁーっ ! お張子さんの酒はうまいねえ」と息をはく。そうしてまだ一口も飲んでいない彌分に,「いやあ,まったく,こんなうまい酒を飲まないなんて,ほんと,守護とかいう野郎どもはかわいそうだ」とあざけると,怒りでわなわなと震える様子に大笑いしていた。

「そういえば先ほど,焔丸殿を助けた者がおったそうだが」

鏑穂が思い出して焔丸に聞く。

「おう。お張子さんはバツをご存知で?」

「バツ?大零院の使いの者のことか?」「使いかどうかは知らねえけどよ,俺んダチでな,よく俺らん森通ってくんだわ。昨日もお寺さんが襲われてるって走りまわってたんだが,なんだい,お張子さんが送ってきたんじゃないのかい?」

「いや,昨日は来ておらぬはずだが。彌分は何か知っておるか?」彌分は「いえ,街には来ておりません」と答える。

「ほお。不思議なもんだ」そう言った焔丸が本殿を見回す。「そういやバツが見当たんねえな」

「ふむ。焔丸殿が来なければ我らは危なかった。バツには余からも礼を言いたいのだが」


小五院からやや離れた小屋。屋根のわずかに残る縁側で,縮こまるバツと,腕を吊るした荒楽 (あらら),二人を案じる兎の耳 (とのみ) が座っている。

「あの…皆さん私のことはいいので本殿に戻ってください」

「お前が戻るまで俺も戻らん」泰然と座ったまま言う荒楽。「鏑穂くらいには挨拶していけ。な?」

「あ,あの,ですから私は」「どうして会いたくないんだ?そんなくだらん嘘までついて。手紙を失くしたくらいじゃ怒ったりしねえよあいつは」

どう説明すればよいものか。荒楽が信じないのも当然だった。クロメが姿を消してから,バツは以前の姿を取り戻していた。目がふさがっている以外は,片腕を覆っていた黒い帯も,腹部の呪印も消えている。

自分は人間に戻ったんだろうか。でも万一結界に触れて自分の本性がばれるようなことがあったら。

山の民に受けた仕打ちを思い出し,焔丸から借りたままの虎皮をぐっとつかんで震える。

「皆さん待ってますよ」兎の耳がつとめて優しい口調で促す。

「…もし」バツがためらいがちに言う。「もし,本当に私が魔族だったら,お二人はどうしますか」

頑なに自分が魔族と言い張るバツに,うーん,と荒楽はうなってから言った。

「少なくとも鏑穂はお前が魔族かどうかなんて気にしねえよ。それが小五院の意思だ」



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