002
「安心しろ。俺は味方だ」
高級な弦楽器のように響く声だった。だがシフの視界ははっきりとしない。そのうち、ジャリ、という足音とともに、それが近づいてくる。
「寄るな ! ゴホッゴホッ…」
シフが警告し咳込む。口を手でかばうこともできず、端から涎が垂れたまま。
「ほら、手枷を解いてやるよ。さあ」「来るなと言っているだろ ! 」「何をこわがってる?俺がこわいのか?」「…誰だ。帝国軍か。それとも私を捕えに来たのか」
「はぁ…」取りつくしまもない。相手は途方に暮れたようだった。と、シフの顔を揺らす様子から何かをさとる。
「お前、目が見えないんだな?」
シフの身体が一瞬固まる。図星だった。煙と砂のせいで目が塞がっている。「治してやるよ。浄化の霊薬を持ってる」
ガラスのはねる音がした。「やめろ ! 」シフが一際大きな声で叫ぶ。「おい、静かにしろ。帝国軍に気づかれたらどうする…」
「もういい…もううんざりだ」
とうとうシフは壁際にへたり込んでしまった。そのまま顔を伏せて動かなくなり、二人の間に無言の時間が流れる。
ズズン。
外の轟音はいっそう強まるように感じられた。
ツンの息吹で飛ばされたのは、故郷のスカイリムのように見えて、そうじゃない世界だった。歩くだけで疲れ、まともに走ることもできず、武器をふるうだけでへとへとだ。剣は容易に手元からすべりおち、商人はぼったくり、獣は挨拶のように病をうつしてくる。傷ついた身体が自然に癒えることはなく、山賊の力のこもった戦槌はこちらが盾を構えていようがおかまいなしに一撃で頭を砕き、魔術師の雷撃は一瞬にしてこちらを黒い灰に変える。
シフは『世界を食らうもの』を倒した英雄のはずだった。それがこの世界では山賊のおもちゃで、奴隷商人にとっては二束三文でしかなかった。そうしてハンマーフェルへ売られる途中、帝国軍と反乱軍の戦いに巻き込まれ、シフを反乱軍と勘違いした帝国軍によって他の者とともに処刑されるはずだったのだ。
だがそれでよかった。ようやくこの苦しみから解放される。そう思った。
なのに黒き翼を持つ『それ』が全てをぶち壊した。
クリームパーレ。それが何だ。
ちくしょう。
暗闇の底を落ちていく。そんなシフの手がふいに持ち上げられるのを感じた。
驚く指先に、炎とは違うぬくもりが伝わってくる。
「俺が敵だと思うか?」
シフの手は相手の胸に押しつけられていた。それは温かく、やわらかく、相手の呼吸とともに大きさが変わるようだった。指を動かすと、「おい、くすぐったいぞ」と笑う声が返ってくる。しばらくして、警戒を解いたシフの手に冷たいビンが握られた。「浄化の霊薬だ。飲め。一緒にここから脱出しよう。俺一人じゃ大変なんだ」
言われるままに、シフはおずおずとビンに口をつけ、かたむける。贅沢な模様の施されたビンに似合わず、スプーン一杯ほどしかないその薬の効果はてきめんだった。視界が一瞬にして晴れる。
初めに目に入ったのは、褐色の肌に、淡い紫の瞳と髪。見慣れぬ容姿の人物が、粗末な革でできた反乱軍の軽鎧をまとってしゃがみこんでいる。
「何を食ったらそうなるんだ」思わずシフは聞いてしまった。
「おい、命の恩人にそれはないだろ?」相手は苦笑する。
と、シフは何か思い出したようにあわてて両手を組み、目を閉じた。「おい」と呼びかける声にも応じず、沈黙する。やがてその口からつむがれたのは、心の底から相手を想う気持ちだった。
「聖女マーラよ、あなたの慈悲に感謝します。私をお救いくださったこの親切な方に、神々の加護がありますよう」
心と口が素直につながった言葉だった。それを聞いていた紫の髪は揺れ、褐色の肌が赤くなるように見えた。
シフの祈りはしばらく続いた。まるでカイネの羽根が舞うように、どこまでも澄んだ優しい空気が、砦の重苦しさを晴らすようだった。
(c) 2019 jamcha (jamcha.aa@gmail.com).