046
翌朝、シフは腰に当たる何かの感触で目が覚めた。丸くて硬い。タニシの手かと思って払おうとしたとき、全身の神経がつながり、血がわきたつのを感じた。
「忘れてた ! ! 」
はね起きたシフはタニシを引っぱるようにしてビー・アンド・バルブを飛び出す。
「お、おい、何だよ」
状況が飲み込めないタニシに答えず、シフはドタドタとドブ街への階段を下り、錬金術の店『エルグリム・エリクシル』に飛び込んだ。
「ハフジョルグさん、ごめんなさい ! 」
開口一番、暖炉のそばで腰かける老妻に頭を下げるシフ。早朝の訪問客に驚く夫妻。
「あら、冒険者さん。いらっしゃい」息を荒げるシフを認め、ハフジョルグが挨拶をする。シフは全身をまさぐって小さな赤い鉱石を取り出すと、「こ、これ」と差し出した。その輝きに、ハフジョルグの目が細くなる。
頼んでいたショール・ストーンの標本だ。
「まさか…本当に持ってきてくれたの?」
何度もうなずくシフ。「ごめんなさい。すっかり忘れていて」
ゆっくりと立ち上がったハフジョルグは、シフの手からそれを受け取ると、暖炉の明かりに照らしてしげしげとながめる。そうして満面の笑みでシフにうなずいた。
「ありがとう冒険者さん。大変だったでしょ?」
シフは顔を横に振り、自分の失態を謝っている。タニシは二日酔いの頭を叩きながら、山賊の襲撃で死にかけたことをもう忘れたのか、と心の内でシフに文句を言っていた。
ハフジョルグからお礼のポーションを受け取ったシフは、首長の依頼をこなすため、不足している薬を含めいくつかの取引をしていた。するとドアベルを鳴らしてブラックブライア家の令嬢インガンが入ってくる。
「こんにちはシフ」「こんにちはインガンさん」
振り返って挨拶をするシフ。相変わらずの古ぼけたケープに、インガンがスンと鼻を鳴らす。続いて、何かを催促する瞳。
「?」シフは笑顔で首を傾けた。
見た目どおりの知能しかないようだな。そう思ったインガンだったが、無垢な様子が新鮮だったのかフッと苦笑する。
「頼んでいた素材のことはすっかり忘れてしまったようね」
「あっ」パッとシフが赤面し、顔を手で隠す。「ご…ごめんなさい。スクゥーマの売人退治にばかり気がいって…」
「スクゥーマの売人?」「はい、退治すれば家を買う権利をくれるって、首長が…」頭をぽんぽんと叩きながら、物覚えの悪さをごまかしている。
口が軽すぎる。そうタニシがたしなめようとすると、インガンが驚いて言った。
「ああ、じゃあリフテン水産の倉庫を台無しにしたのはあなただったのね」
「台無し ! ?」シフが飛び上がる。
「そうよ。向こうの仕事が元通りになるまで、母のハチミツ酒醸造所で雇うことにしたの。多分、彼らが向こうに戻ることはないでしょうけど」
「母の?」
あー…とインガンは一瞬天井を見上げた。「本当にリフテンのこと何も知らないのね。私の母はメイビン・ブラックブライア。ハチミツ酒醸造所を経営しているの。リフテンで知らない者はないわ」
「そんなにすごい方なんですか」素朴にたずねるシフに、インガンは何かを思い出したのかうんざりした調子で言う。「会いたいなら、午後に市場に行けば会えると思う。気配でわかるはずよ」
気配でわかる、という言葉に、ブラックブライア家の当主メイビンがどういう人物なのかシフはわかったような気がした。「それで…」とインガンが話題を変える。
ああ、そうだ。今度はシフが思い出したようにあわてながら「そ、素材ですよね ! 」
「ええ。集められそう?無理ならやめてもいいのよ、これまで何人も死んでるから」
何人も。そんな話聞いていない。「そんな大変な場所にあるんですか…?」
インガンは興味がなさそうに言う。「さあ、どうかしら。ベラドンナは墓場とかに生えてるから、スケルトンや死霊術師に歓迎されるかもしれないし、デスベルの生えるような沼地にはシャウラスがうろついていてもおかしくない」
「…」シフが返事を言い淀む。シフはシャウラスが何か知らないが、死霊術師と同じくらい恐ろしいものだということはわかる。力を蓄えなければ何もできずに返り討ちにあうだろう。
「あの」「何?」「もし、集めてきたら、ひとつ私のお願いを聞いてくれませんか?」
来た、とインガンは腕組みをした。どいつもこいつもブラックブライア家の財産しか見ていない。
「内容によるわ。どんなお願いかしら?」
凄みを含んだ声に、シフは小さく縮こまりながら、言う。
「聖堂に…お祈りをしてほしいんです」「え?」「聖堂…マーラの」
予想外だった。聖職者だったのか。どうりで間抜けな見た目だと思った。インガンのシフへの興味が薄れてゆく。
「いいわよ」返事をするインガンにシフはパッと明るい顔で「お願いします ! 」と元気に言った。
「いい?ちゃんと素材を集めてきたらね」「はい ! 」任せろとばかりに胸に手を当てるシフ。
店を去る二人を見送りながら、インガンは溜め息をついた。どいつもこいつも調子ばかり良いだけで使えない。臆病なやつは逃げ出し、無鉄砲なやつは死ぬ。家の資産を使えばすぐに買い集められるのに、どうしてこんなに手間取らなきゃいけないのか。
そうして不満で爪を噛みそうになる自分に気づき、手を振った。まったく、錬金術の素晴らしさをわからないブラックブライア家の面々にはうんざりだ。金と権力の亡者どもめ。生命の調和が薬で失われてゆくことほど面白いものはないというのに。
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