舌の代償
通夜の会場には誰もいなかった。前の人のマネをして手早く済ませ、そそくさと立ち去ろうとしていたアズキは入り口でとまどう。
「おまえ」
低い声に背筋がこわばった。見上げるほどの男がアズキの前にやってくる。
「やめなさい」
男が続けて何か言おうとするのを、その後ろから、海苔を巻いたモヤシのような女が止める。その声は、風が吹けばかき消えそうに小さい。
「おまえ、マルタンが言ってた友だちだろ?そうだな?」
顔を近づけてくる男、が怖くて、アズキは顔を伏せて帰ろうとする。
「待てよ」
アズキの袖がつかまれた。反射的に「痛っ」と顔をゆがめる。ひるんだ男が力をゆるめると、手を引き抜いてそのまま駆け出した。怖い。追ってきたら声を出すつもりだった。
「おい!たのむ!何があったか教えてくれ!」
男は追ってこなかった。アズキは角を曲がって、そのまま嫌な気配が身体から抜けきるまで走った。結局駅まで走り、ハンカチを眉に当てて電車に揺られた。かかとから昇ってくる靴擦れの熱と痛みにいらいらする。
****
キィはアズキの友人だった。マルタンという本名が嫌いだったので、アズキは二重三重にもじってキィちゃんと呼んでいた。
キィは物知りだった。そして話題になるもの、人気のあるものを馬鹿にした。何についても「普通」「よくある」「こんなので感動するって、経験足りないんじゃないの」とけなした。そしてキィが勧めてくるものは古臭かった。そんなわけで、高校を出る頃には友人はアズキだけになっていた。それも二人が別々の大学に行くようになると、会う回数も減っていった。
それは奇跡的で悲劇的な偶然だった。ある日、アズキはネットでキィのアカウントを見つけてしまった。もちろん偽名だが、発明のたとえにフランクリンの雷の実験やグーテンベルクの絞り器を出すのは地球上でキィしかいない。
キィはネットでも変わらなかった。なんにでも噛みついていた。アズキがプレーンテキストが何なのかわからず、サクラエディタに一旦コピペしてからエクセルにコピペしている間も、キィはネットで休みなく吠え続けていた。まるで、苦痛にあえぐ獣が、いいねという痛み止めを求めてのたうち回っているようだった。
****
キィの自宅に電話をかけると、前に会った男の声がした。アズキが名乗ると、ガサガサガサッ、と向こうで何かの這いずる音がした。
「母に聞こえるよう、切り替えてもいいですか」緊張した声が聞こえてきた。アズキは「はい」と返事した。
アスファルトで目玉焼きができる日に、アズキは祖母を見舞ったあとキィに会った。喫茶店は生き返るような涼しさで、ビーフパストラミサンドがおいしかった。
キィは以前に会った時よりもやせていたが、口調は変わらなかった。アズキが豆乳ラテに入っていた氷をガリガリとかじっているあいだも、用意していた原稿を読み上げるように、ずっと話していた。アズキがロサンゼルスで食べたビーフパストラミサンドの味が薄かったことを話しても興味はなさそうだった。ソースをかけ忘れたんだ、というツッコミもなかった。
ひととおり話が済んで、アズキがテーブルを拭いているときにキィは「最近、ちょっとつらい」と小さな声で言った。その言葉でアズキは圧縮された過去が展開されるように感じた。キィは高校でデカルトを読んでいた。物知りだった。知ったふりも多かった。喧嘩は弱かった。皆勤賞でもらった辞書を使っていた。いま、アズキの目の前にいるキィは、あのときのままだった。アズキは自分だけが未来にワープしてきたような錯覚をおぼえた。
「行き詰まったんじゃない?」
アズキは思ったことをそのまま口にした。「そうかもしれない」とキィは答えた。
「…」
電話のむこうから嗚咽が細く高く聞こえてくる。アズキが少し黙っていると、「ありがとうございます」と低い声があり、その夜のことを時おり鼻をすすりながら言った。その日の夕食に、珍しくキィは現れた。友だちと会って楽しかった、と言った。キィは母の作ったうどんを食べた。にぎやかな食卓に、忘れていた気持ちがよみがえるようだった。翌朝、キィだったものがベランダにぶらさがっていた。
「はぁ…」
アズキは額に手を当てて落ち着こうとしたが、何かが猛烈な勢いでこみあげてくる。ついに抑えきれず、目と鼻から水を吹き出しながらありったけの声で叫んだ。
「それくらいでうれしくなるなら、どうしてもっと優しくなろうって思わなかったんだよ!」
アズキは液晶が波打つほど強く画面を押し、通話を断つと壁に投げつけようとした。背後から理性の腕が伸び、手首をつかんだ。仕方なく電源を切ってクッションの上に投げ捨てる。むしゃくしゃしたアズキはカーテンを閉め、部屋の電気もマルチタップのランプもすべて消し、誰もいない真っ暗な世界、どの銀河からも遠く、遠く離れた場所で、隠れて泣いた。
めちゃくちゃだ。
どんな理由であれ、アズキはキィにとどめを刺してしまった。地獄行きだ。キィの抜け殻はやがて焼かれ、灰になって、墓に納められるだろう。ただ、墓石がピカピカだろうが苔むしていようが関係ない。墓参りなんてするものか、とアズキは思った。自分の命が尽きれば、地獄でまたキィの愚痴を聞かされることになるのだから。何万年も。何億年も。
そしてキィのことだから、針の山や血の池のなかでも、「普通」「よくある話」「こんな仕掛けで苦しむなんて、大して苦労してないんじゃないの」なんて強がりを言うだろう。飛び出た目玉を口元まで垂らして、ちぎれかけた腕をぷらんぷらんさせて。
なんか笑える。
-- 了 --
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
(c) 2019 jamcha (jamcha.aa@gmail.com).