クロガネの道
モンスターの襲撃によって,家と家族,そして生活の糧である仕事を失ったキジクは,縁士 (えんし) として働かざるを得なくなった。縁士は「なんでも屋」の形式ばった言い方であり,縁士組合に所属する者をさす。その仕事は多岐にわたり,採集や調査,場合によってはモンスターを討伐することまで求められる。最も過酷な職のひとつであり,三年のうちに八割の者が命を落とすといわれているが,その反面,得られる報酬も膨大である。一級の縁士を夢見て地獄に足を踏み入れる者も絶えない,罪な仕事ともいえる。
右も左もわからず広大な大地に放りだされ,あるときは肉食獣に追われ,またあるときは毒草を口にして生死の境をさまよいながら,キジクは駆け出し縁士としての日々を過ごした。日が暮れ,設営したキャンプで毎晩横になるたびに,キジクは明日が来ることを恐れた。この世界はキジクが生きるには残酷すぎた。毎日のように死の恐怖に怯え,顔をくしゃくしゃにしながら逃げ回り,ようやく目的を達成しても,組合に帰るたび仕事の不備を叱責される。街で見る縁士の評判など,自分のような使い捨ての道具を確保しつづけるための方便なのではないかと思った。いっそのことモンスターに食われればよいとさえ思うこともあった。だがそれを思うたび,あの巨大な爪と牙をもつ,弩爪獣ゼレグリアに屠られた草食獣の無惨な死体が頭をよぎる。
弩爪獣 (どそうりゅう) ゼレグリア。全てを引き裂く巨大な爪と,噛みしめるたびに弾けとぶ牙。あらゆる命をたいらげる顎 (あぎと)。底引き網のように大地を駆けずり,遮るものを喰らいつくす破壊の化身。組合でも危険視されるモンスターに,かつてキジクは会った。死神の視界に自分が入ったのがわかった。うかつだった。死んだと思った。あのときなぜ逃げきれたのかキジク自身覚えていない。ただ,腹を食いやぶられた草食獣の死体,その姿が自分になっていたかもしれないという戦慄だけが,始終鈍い腹痛としていまでもキジクを襲っている。
月光草だけを採集して生きていきたいと思った。夜でも目立つ月光草は採集しやすい。そして凶悪なモンスターの気配さえなければ,夜のほうが敵から姿を隠しやすかったからだ。だがそんな平穏はすぐに破られた。まがりなりにも縁士としての実績を積んでいったキジクは,人手不足を理由に瞳岩獣 (どうがんりゅう) ハエルベエツの討伐を命じられてしまったのだ。瞳岩獣は丸く巨大な頭と硬い足をもつモンスターである。動きは鈍いがその攻撃は重い。弱点は頭部だが攻撃するのは至難のわざである。なぜなら時折見開かれる眼があまりにおぞましく,よほど精神の強い縁士でなければ金縛りのように硬直してしまうからだ。そうして無防備になった身体に重い頭部が振り下ろされ,五体はバラバラになる。では背後から攻撃すればよいかといえばそう単純でもない。その後ろ足は硬く,並大抵の攻撃は弾かれてしまうのだ。弩爪獣にくらべればはるかに危険が少ないとはいえ,キジクが戦うにはあまりにも無謀な相手であった。
縁士を何人か犠牲にして奴を弱らせていけばいずれは討伐できると組合は思っているのだろうか。そんな捨て駒はまっぴらだ。そうはいっても,組合の命令を無視して逃げたところで待っているのは飢え死にする未来である。まるで自分が死を命じられているように感じられた。あまりに無慈悲な現実に,キジクは出発する日が来ないことを祈り続けた。
「これだけの金をかけて,おめおめと逃げ帰ってきたのか!」
その日のキジクはいつもよりはるかに長く暴言をぶつけられていた。確かにキジクは瞳岩獣と交戦した。だが死への恐怖ゆえ,まともに瞳岩獣の正面に立てないキジクは,弾かれるとわかっていながらその足に攻撃した。そうして無為に武器を刃こぼれさせただけでなく,その尻尾に吹き飛ばされ大事な鎧を台無しにしたのだ。戦意を喪失したキジクは踵を返し,あらゆる叱責を覚悟で帰ってきた。当然収穫など何もない。
大勢が見ていた。だが説教から解放されたキジクに労いの言葉をかける者もなかった。幽体離脱したかのように生気のない顔でキジクはその場を去った。そこにいた誰もが一人の縁士の終わりを確信した。
暗く冷たい床に腰かけ,キジクはあふれでる涙を止められずにいた。縁士になる前の自分がよみがえる。あの日,モンスターの襲撃さえなければ,自分は今でも朝日とともに目覚め,家族への挨拶とともに仕事に向かい,汗を流しながら仕事をこなし,日暮れとともに帰り,夕食に舌鼓をうち,会話に花を咲かせ,笑い,そして安らかな眠りについていたのではないか。それが今や,あらゆるものを恐れている。明日が来ること,空腹,説教,周囲の目。自分が生きていることさえも。
どうして自分はこんなことになってしまったのか。なぜこれほど理不尽なめにあわなければならないのか。全てに見捨てられ,涙さえもかれきった抜け殻は,水泡のように浮かんで弾ける思いをそのままに,暗闇の中へ溶けて消えていってしまいたかった。
あるとき,ふと一筋の火がともった。
それは答えだった。
なぜ自分がこんなめにあっているのか。
あのモンスターのせいだ。
仕事も,家も,そして最愛の家族さえも奪った,あの怪物め。
キジクははね起きた。頭に血がめぐった。あれが何なのか,名前さえ知らない。だが自分の命があるかぎり,やつと同じ空を見ることなど決してしないと誓った。
それからキジクは人が変わったかのように書物を読みあさった。瞳岩獣を倒すため,そしていずれは自分から全てを奪ったあのモンスターを倒すためだ。他の縁士に聞こうとは思わなかった。多くの縁士は徒党を組んでモンスターにあたる。戦い方もチームごとに独自に洗練させたものになっている。ゆえにアドバイスを求めれば,やがてその縁士たちの一団に属することになり,望まない付き合いと上下関係に縛られることになる。それはひとときの安らぎをもたらすこともあるかもしれないが,モンスターだけでなく人の心という新たな怪物とも戦わなければならなくなる。リーダーの判断に従っていてはいつあのモンスターと戦えるようになるかもわからない。それではキジクの思惑とは別の方向へ身体を預けることになってしまう。
そうはいっても,身の丈の数倍はあろうかというモンスターと戦うすべを記した書物などそう多くはない。一人で戦おうというのだからなおさらだ。達人の記録はいくつか残っているが,いずれも『天機漏らすべからず』『獣と心を一にすべし』といった内容で,キジクには理解できないものばかりであった。
モンスターと戦っていくには,団に身を置くしかないのか。とはいえそんな気持ちで入られた方も迷惑だ。渋い思いを内に抱えながら本棚の背表紙をながめていると,ふと雑な装丁の本が目に入った。個人で出したであろうその表紙には,『著・クロガネ』とある。パラパラと中をめくると,見慣れぬ武器が紹介されていた。それは背丈ほどある巨大な鉄塊に柄がついており,まるで工事で扱う槌のようである。さらに奇妙なことに,このクロガネなる人物は,防具を用いず,己の肉体と武器だけの力でモンスターと戦う術を記していた。命知らずだ。狂気の沙汰だ。敵を知りつくしていなければこのような芸当はできない。キジクは魅入られたようにクロガネの本を読みふけった。
瞳岩獣はかつて目にしたときと同じように,悠然とその姿をさらしている。その身体には傷ひとつなく,頑強な甲殻を自慢しているかのようだ。おそらくキジクの存在には気づいているだろうが,それでも様子ひとつ変えないのは,キジクを敵とすら思っていないのだろう。ならば好都合である。
背後から駆け寄ったキジクは渾身の力で槌を振り下ろした。甲高い音が鳴り響き,瞳岩獣が身震いする。キジクの槌は黒光りする瞳岩獣の足に命中した。剣のときとは違う。超重量の鉄塊は瞳岩獣の甲殻をもってしても弾くことはできないのだ。明確な敵の出現に,瞳岩獣は戦闘態勢に入る。だがその動きは遅く,後ろを取るのはたやすい。さらにキジクはもう一撃を足に加えた。一見手応えがないように見えるものの,わずかに破片が舞うのを見逃さなかった。
はたからすれば,ハエのように瞳岩獣の周囲をうろつき,たまにちょっかいを出しているようにしか見えない。こんな様子ではいつになっても倒せないのではないか。そう思える。ただキジクだけは違った。クロガネの記すとおりに戦えば,いずれ好機が訪れるであろう確信があった。
一体何度目か,振り下ろした槌の手応えが変わった。山のようなモンスターの身体が揺らぎ,横倒しになる。執拗な足への攻撃に,その重い身体を支えきれなくなったのだ。もがく瞳岩獣。その隙をキジクは見逃さなかった。すぐさま頭部へ駆け寄り,無防備な頭をめった打ちにした。肉が裂け,その奥にある骨の歪む感触が手に伝わる。血が飛び散る。ようやく瞳岩獣は身体を起こした。すぐさまキジクは背後に回る。激昂する瞳岩獣。その動きが早まる。矢継ぎ早に繰り出される尻尾が顔をかすめ,キジクの頬が割れた。だがそれが致命傷にはならないことはわかっている。怯まず足を攻撃するキジク。ときにこびりついた肉を振り払いながら,その心は高揚感に満ちあふれていた。
瞳岩獣を屠った縁士はそれに慢じることもなく,新たなモンスターと戦っていった。敵を知り己を知るとはどういうことか,クロガネの書には直接書かれていない。だがキジクは自分なりに読み取った。敵がどのような生態なのか,どのような攻撃をし,どのような弱点を持つのかを知ること,確かにそれが重要なのは間違いない。けれどもそれだけでは不十分だ。クロガネが無言で伝える。自分が得意なこと,苦手なことを知り,それを補うように準備をしなければ,打ち勝つことはできない,と。
かつて月光草を摘んで生きていきたいと願っていた臆病者は,いつのまにか地域の組合のみならず他の地方にも知られるほどの縁士へと成長していた。自分の家族を奪ったモンスターさえももはや過去のものとなった。クロガネの書にも記されていないモンスターであってももはや臆することはなかった。それでもなおキジクの中にはクロガネの教えが生きていた。
ある日,組合のなかで縁士たちが騒然となっていた。謎のモンスターにいくつもの団が壊滅させられたという。その場にいる者たちも激論をぶつけあい,収拾がつかないようだ。キジクは生き残った者に話を聞いた。曰く,弩爪獣をも防ぐ頑丈な鎧をもってしても,一撃で骨まで消し炭にされるという。そしてその特徴をいくつか聞くなかで,キジクにひとつの考えが浮かんだ。
「それは閃頭獣 (せんとうじゅう) アレディミスに似ていたのでは?」「アレディ…そう。そうだ。あのトサカには見覚えがある。だが攻撃力が桁違いだ。同じものとは思えん」
「大変だ!」組合に駆け込んでくる者があった。息をあげながら,そのモンスターに街が襲撃されたと伝える。周辺の団は皆やられ,さらに,残った縁士たちはすぐに向かうよう命令が下った,と。だが,それを聞いた皆の顔は険しい。むざむざ命を捨てようと思う者はいないからだ。誰もが尻込みをするなか,騒ぎをつらぬくような声が響いた。「私が行こう」
一瞬にして場は静まりかえり,誰もが声の主に目を向ける。キジクだ。「勝算があるのか」隣にいた縁士が聞く。それに答えずキジクは入口に立っていた者に向かって言う。「報酬は十分あるんだろうな」走ってきたばかりのその人物は,キジクの問いに,汗をぬぐいながら何度もうなずく。
一人で大丈夫か。こいつはいつも一人だった。ひそひそと話す声が聞こえる。
むしろ一人だからいいのだ。キジクは席を立ち,出発の準備へと向かった。
廃墟と化した街にそのモンスターは寝ぐらを作っている。次に空腹を覚えれば,新たな街を襲撃するだろう。だがそれもここまでだ。キジクは鈍く光る槌を持って戦いを挑んだ。
翼が退化し,大きな手の平のようになった腕。垂れ下がった大きなトサカ。鋭いトゲに覆われた尻尾。間違いない。閃頭獣だ。だがそれは通常の個体よりもはるかに大きく,全身に光を帯びている。死と破壊を体現したそれが動くたびにキジクの毛が立った。
戦いが始まった。舞うような動きでキジクは立ち向かう。無骨な武器に似合わず,その衣装は身軽なものだった。苛烈な攻撃をかわすため。いや,それだけではない。むしろ,重装ではだめなのだ。
閃頭獣は全身に蓄積した雷撃を武器とする。それは硬い防具を容易に貫き,骨まで焦がす。ゆえに,守りが薄くなろうと,雷撃を防ぐ素材で織られた鎧をまとわなければならない。それでも気を抜けば全ての攻撃が致命傷になりうる。だが,より危険なのは,チームで挑み,巻き添えをくらうことだった。一人でも未熟な者がいれば全滅しかねない。一人だから良いと判断したのはこのためである。
垂れさがったトサカに槌の攻撃が届き,蓄電を解除する。強力な武器や防具におごった者たちほど,この敵の罠にかかって命を奪われてきただろう。だがこれまで一人で戦ってきたキジクは,全ての攻撃を見切らなければ,そしてそれに適した準備をしなければ生き延びられなかった。様々な偶然が後押しするように,キジクは閃頭獣と互角にわたりあっていた。
期限が過ぎてもキジクは帰ってこなかった。顛末を記録するため,縁士の一団が廃墟を訪れた。切り裂かれた壁に,炭化した柱。それらが戦いの激しさを物語る。すえたにおいが漂ってきた。その悪臭をたどると,その先にはあちこちが圧し折れたモンスターの亡骸があった。やったのだ。キジクがやった。だがそこに閃頭獣を葬った英雄の姿はない。ただ,歪んだトサカに焦げた布の切れ端がついているのみであった。
この物語はフィクションであり,実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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「報酬は受取済だって?そんなばかな」地方にある縁士組合の受付でキジクが大声をあげる。街を破壊した閃頭獣,命がけでそれを倒したというのに,莫大な懸賞金は既に別の人物に支払われたというのだ。
「間違いないよ。討伐した証拠だってある」怪訝な顔をするキジクをよそに,腰掛けた係員はそう言って,机の引き出しから書類を取り出して見せる。示された文書をながめながらキジクがたずねた。「その人,どんな人相だった?」
「そうだなあ。みすぼらしい服に,やたらと大きな武器をかついでいたよ。たしか名前は…」
– 了 –