好き好きお布団ちゃん
「これは布団依存症ですね」
医師の言葉に、咲は「ついにこのときが来てしまったか」と思った。
布団依存症は現代になって発見された恐ろしい病だ。毎日横になって布団に7時間以上接触していないと、肥満や抑うつ、知力低下などさまざまな障害を引き起こす。発症しても自覚症状がないのがほとんどで、布団依存症によるこの国の経済損失は毎年千億ドルを超えるとまでいわれる。布団は古くから親しまれてきた寝具だが、それがもたらす悪影響を国も無視できず、布団の使用を禁止することを検討している。
咲は最近、仕事でのミスが増え、体重の増加にも悩んでいた。もしやと思って医師に相談したところ、自分を蝕む恐ろしい病を知らされた。医師は、布団依存を放っておくと、脳に悪性のタンパク質が蓄積し、さらなる知能低下や、認知症のリスクが高まると告げた。咲は断腸の思いで、愛用していたクマ柄の布団を捨てた。
布団依存症に効果的なのが、コーヒーなどのカフェイン、運動やシャワーなどの気分転換、そして適度なストレスだった。咲は始まったばかりの新たなプロジェクトで、自身の責任ある立場を全うし、布団依存を克服しようと決めた。はじめは無意識に布団を求める自分にとまどっていたものの、やがて仕事での達成感が、布団への欲求を吹き飛ばしていった。元気いっぱいだ。以前の自分に戻れる日もそう遠くはない、そんな予感があった。
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「おかしいな」「どうしました?」
会社で眉を寄せる咲に、年下の後輩が話しかけてきた。
「いや、何でもないです」
咲はそう答えたが、やはりおかしかった。カフェイン剤の影響で時たま手が震えるほかは異常もなく、布団を求めるような欲求もない。簡単な仕事もできる。けれども、メモや資料の中身が全く入ってこず、文字の羅列が頭の中で文章にならない。それだけではない。会議の間も、人の話が聞き取れず、質疑にとまどうことが増えていた。人の声がまるで知らない国の言葉に聞こえる。
身なりを気にすることも減り、化粧も雑になった。かつて冴えわたっていた勘も、とことん鈍くなり、まるで自分で考えることを拒んでいるようだった。メールの添付ファイルを開くのさえ面倒で、上司からの注意もきつい調子に変わっている。
「いったいどうしたんだ」
それは誰よりも咲自身が感じていることだった。
終電間際の混雑のなか、地下鉄のホームで咲は落ち着かない気分だった。何かに追われているような焦りが消えず、頭の中がモジャモジャして、ボサボサになった髪ごと頭をかきむしった。何人かと目が合った。恥ずかしくなって手を下ろし、やってきた電車に乗り込んだ。
ギチギチの車内で立っていると、ブレーキが踏まれて身体が圧縮された。その拍子に自分の影がうっすらと、白い糸を引きながら何人も飛び去った。戒めから解き放たれた影たちはそれぞれの場所で願いを叶えた。ある者は自宅のロフトからロープを下ろして、ある者は浴室に剃刀を持ち込んで、またある者はビルの最上階から身体を乗り出して。
そうか。
咲は最寄り駅で降りるとコンビニへ入り、商品を陳列していた店員の手をはたくようにしてサンドイッチを取ると、そのまま店を出ようとしてつかまった。
強盗致傷の最高刑、死刑にしてほしかったからである。
咲の返事が不気味だった店員は、119番に電話をした。110番でなく。それが咲の命を救った。
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「前頭葉と海馬にかなりの萎縮がみられます」
医師の言葉を、咲は黙って聞いていた。
長きに渡る布団依存症は咲の脳を食い荒らし、理性と記憶を奪った。もはや今までのような生活には戻れない。それでも咲は、自分を追い詰めていた何かから解放されたような安堵を抱いていた。
その日の血液検査を終えた咲は、病院のロビーでテレビを見た。音が出ると怯える人が出るので、代わりに大きな字幕が表示されている。
新興の政党『布団を愛する党』が勢力を伸ばしているそうだ。彼らは布団を受け入れることで、ダイエット効果や知能の向上、健康寿命が上昇する事実を訴えている。すかさず野次がとぶ。それは違法薬物を売るやつらの決まり文句だと。
咲はまだ早口の会話を聞けるほどには回復していない。大きくあくびをして、張りの戻った頬をこすると、サイズの合わないスリッパを擦るようにして病室へと戻っていった。ベッドで横になっていると、まるで天使にマッサージされているような心地よさだった。
好き好きお布団ちゃん。
-- 了 --
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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