クモの引っ越し
タイトルのとおり、この話には虫が出てきます。苦手な方は読まないでください。
部屋の隅でクモを見つけた。胴体がゴマ粒ほどの大きさだ。おそらく巣を張るような種ではない。この類のクモが私の部屋に居候しているということは、エサとなる虫も豊富に暮らしているということだ。定期的に掃除しているつもりだったのだが。それとも迷いこんだのか?いずれにせよ、無理に追い出そうとして足のパーツが外れたり腹が潰れてしまうようなことになるのは避けたいので、自然に出ていくまで放っておくことにした。
すると幾日かしてクモが増えた。一匹目からやや離れたところに、二匹目がとまっている。どちらも壁の色にとけこむようにして微動だにしない。エサを待ちかまえているのかもしれない。けれど、この部屋に虫は君たちしかいないよ、きっと。いや、もしかしたら私が寝ているあいだに始末してくれているのかもしれない。だとすればありがたいことだ。ただ私からの礼は期待しないでほしい。
私にはクモを見つける超能力が身についたのだろうか。部屋で二匹のクモを新たに見つけた。他のに比べて随分と小さいので子供だろう。ということは、こいつらは私の部屋で繁殖しているということか。それはエサが継続して提供されているということも意味する。あいにく、不快昆虫博物館で生活するような趣味を私は持ちあわせていない。カレンダーに印をつけ、掃除の準備をはじめた。
翌朝、一匹が部屋の隅から数センチ離れたところで潰れていた。少なくとも私にはそう見えた。身体が半分くらいにひしゃげていたからだ。何かの拍子に私が潰してしまったのだろうか。供養しようか。そう指をのばしたところで手がとまった。もし生きていたら逃げようとするだろう。そうなるとクモに余計な体力を使わせてしまう。だからもうすこし様子を見よう。
さらに次の日。潰れたはずのクモがいつもの指定席に戻っていた。だが足が一本使えなくなったようだ。力なく垂れさがっている。こいつは目を話すと身体の向きをしょっちゅう変えている。他のクモは微動だにしないのに、こいつだけはずいぶんと活動的だ。何を食べているのだろう。
…もしかすると、あれか。私は身震いした。念のため言っておくと、黒くてすばしっこいあれではない。白くて小さい、どんな家にも現れてたまに壁を動いているあれ。あれは人間に害をなす。そんな直感がある。一刻もはやく掃除の時間を確保しなければ。いや、掃除のために手負いのクモを無理に追い出すのは良心がとがめる。これまで私の部屋を守ってくれたのだから。
どうしよう。と、そんな私の心配は杞憂だった。数日もすると、足がもげてしまった物も他の個体と変わらないほどにしっかりと壁にはりついていたからだ。クモの生命力は強い。少し安心した私は、平和を取り戻すべく、部屋の掃除をはじめた。
白くて小さいあれはカビを食べる。やつらにエサを与えてはならない。私は洗剤とセスキを駆使して壁を拭いた。ホコリと汚れでくすんでいた壁紙が元の色を取り戻していく。しばらくすると、ねぐらに異変を感じたのか、ひときわ大きなクモが姿を現した。でかい。それは黒い姿を右往左往させながら、私の背より高い場所を動き回っている。今まで私の部屋の治安を守ってくれてありがとう。でももう出ておいき。壁をとんとんと叩きながら、私はそのボスを窓の方まで誘導し、網戸を引いた。
バリッ。
クモに注意が向いていたせいで、網戸を引く手がずれて大きな穴が開いた。肩を落とす私。尻から短い糸を垂らしながら、外から吹き込む風に揺られるボス。はあ。私は余計な仕事を増やしてしまったことに落ち込みながら、彼もしくは彼女が出ていくまで他の場所に掃除機をかけた。
汗でびしょびしょの身体をぬぐって窓の方を見ると、もはやボスの姿はない。部屋の隅を見ても、とっくに脱出したのか、一匹も姿がない。いや、一匹、逃げ遅れたのか、小さいヤツが残っていたので、私はそれを紙にのせて窓の外に放った。
ホテルに泊まったような気分だ。掃除が済んでシャワーを浴びた私の目に飛び込んできたのは、ピカピカに磨かれた部屋だった。これなら、神様も喜んで訪れてくれるに違いない。こんなきれいな所で眠れるなんて、私はなんて幸せものなのだろう。その晩、私はかつてのすすけた壁にとまったクモを思い出しながら、まるで別の世界に来たような満足感にみたされて布団に入った。
-- 了 --
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