ユーくん
「ありがとな」
娘を腕に抱えたダンが、玄関でジュリに礼を言う。ジュリはドアに手をかざしたままうなずいた。
「うん。じゃあユーくん、またね」
ユウに手を振る。ユウはブラブラと身体を動かし、舌足らずな声で「バイバイ」と言った。それに合わせるように、廊下の奥からこちらをのぞく頭もわずかに下がる。ジュリはそれにも目を合わせて軽く会釈し、外に出た。夕日の差し込む灰色の街並みを手すり越しに見下ろすと、帰宅する車の列で道路が埋まっている。
エレベーターに乗り込んだジュリは、ユウの無邪気な笑顔を思い出しながら、腕時計に受信したメッセージをメガネに転送して確認していた。ユウはダンの息子で、トラブルがなければ来年支援学級に上がる。二人ともジュリの大切な友達だ。仕事に追われるダンとあまり表に出ないユウの母に代わり、なるべく時間を作って面倒を見ている。ジュリも仕事は忙しいけれど、人懐っこいユウと過ごしていると、心が洗われるような気持ちと、昔に捨てた淡い夢がよみがえってくる。
チェック、チェック、チェック…。操作する手も軽い。
パートナーのサラからのメッセージが目に入った。ナプキンを切らしてジュリのを使ったそうだ。具合をたずねようとサラを呼び出すと、間もなく腕時計のモニタに顔がうつった。
「ユーくん送ったから、今から帰るよ」
だがサラの表情は冴えない。『先生が来てるんだけど…』
「え?」ジュリの身体が固まった。「…部屋に入れたの?」
サラが言う。『ごめん。二人に言いたいことがあるんだって。だから、できれば寄り道しないで帰ってきてほしいんだ』
「わかった」
ジュリはマンションを出ると、自分を待っていた無人タクシーのプランを『快速』に切り替えて乗り込んだ。いつもの混雑した道を横にそれると、タクシーは高級車ばかりの道路に入る。キレイに舗装された道の上をタクシーはすいすいと進み、あっという間に自宅に到着した。
****
ジュリがキッチンのドアを開けると、白銀色の長い髪と、新雪のような肌が目に入った。
真っ赤な瞳がこちらを見る。先生。ジュリの心がざわつく。
先生はジュリの顔が目に入っても、テーブルの上に組んだ手を解かなかった。前のめりの身体はボールのように丸く大きく、きゅうくつなイスが動くたびにキィと悲鳴をあげる。
「お久しぶりです」ジュリが頭を下げた。サラは冷蔵庫の隣で心配そうに立っている。
「まあ、座りなよ」
先生に促され、向かい合う席にジュリは着いた。サラはその隣のイスに座る。ふだん自分の座っている場所に佇む異物に、ジュリは自分の家にもかかわらず奇妙な居心地の悪さを感じている。
「最近の調子はどうかな」先生が世間話を切り出した。「はあ、おかげさまで、二人、なんとかやれています」「それはよかった」
先生はジュリとサラが務める会社の元上司で、三世代前の遺伝子操作が施された『ラビット』だ。その愛称は遺伝子改変の際に生じた白銀色の美しい髪と白い肌、そして真っ赤な瞳に由来する。ラビットは先代の特質を受け継ぎ、高い繁殖力を持っていた。けれども三十年にわたる金融内戦を経て、彼らより下の世代の人口は大きく減ってしまった。ラビット達が現役を退いたあと、食い散らかされた残飯のような世界でジュリとサラは生きている。
「それで今日はどういう…」
「ちょっと見てほしいものがあってね」ジュリの疑問に答えるように、先生は指を動かし始めた。先生の網膜ディスプレイに表示された情報を、指で操作している。何をしているのかジュリ達にはわからないが、間もなく二人の腕時計がメッセージを受信した。
「あ、しまった」先生がそう言って、サラ宛のリンクだけを無効にした。「サラ君にはダメージが大きいかもしれないからね」
「私なら平気ってことですか」
ジュリが苦笑して腕時計を操作すると、メガネを装着するよう通知があったので、指示されたとおりにした。先生の見ている画面が同期され、ファセット (Facet) と呼ばれる古き良きSNSが映る。通信量が少なく、また利用料も安価なため、今でもそこそこ使われている。
「読んでみてほしい」
先生はそれだけ言って黙った。ジュリが訝しげに目の焦点をファセットに向ける。
間もなくジュリの顔から血の気が引いた。
「…何ですかこれ」
心配になったサラが「あの、私も見ていいですか?」と言う。だがジュリはすぐさま「待って」とさえぎる。
「ジュリ君が見ているのは、この近所での僕らへの悪口だよ」先生が言った。
ラビットへの悪口。先生の口から出たのは軽い表現だったが、ジュリの身体から漏れ出す重苦しい雰囲気に、サラはおぞましいものを感じた。
憎悪。
とても言葉にできない、してはならないものをジュリは見てしまった。見せられてしまった。
ラビット達『銀髪鬼』が財産を独占しているから、彼ら彼女らを絶滅させなければならない。そんなことを、考えられる最悪の表現で埋め尽くしている。
「…」
ジュリだって先生たちラビットへの嫉妬や不満はあった。網膜ディスプレイと指先の触覚フィードバック端子1セットにかかる金額で、百人分のメガネと腕時計が賄える。しかもそれはラビットが生まれた頃には格安で施術できたのだ。頻繁な故障と修理費用に悩まされるジュリは、先生たちの持つ金を少し分けてほしいと思っている。けれども命を奪えなんて、どうしてそんなひどいことを思いつけるのかジュリにはわからなかった。
「…あっ」
さらに何かに気づいたジュリが、思わず腕時計に触れた。けれども先生が見ている画面なので操作できない。するとジュリの視線を受信していた先生が、代わりにジュリの見たいアカウントを映し出す。
「…ハー」ジュリの口から、震えるような、大きな大きなため息が出た。
蚊帳の外にいることに耐えられなくなったサラが「何なんですか先生、これ以上変なもの見せないでください」と訴える。間もなくメガネも腕時計も外したジュリが、両手で顔を覆って嗚咽を漏らし始めた。
アカウントに写っていたのは、ユウの顔だった。そして他の口調から、アカウントの主も一瞬でわかる。
ダンだ。これはユウの父親、ダンのアカウントだった。ジュリの知らないところで、彼はもう一人の自分を演じていた。
ゲームなど日々の趣味。ユウの発熱。治療の経過。回復の喜び。入学した後の幸せを願う言葉。そうした愛に満ちたメッセージの次に、平然と、銀髪鬼を全員殺せという発言がなされる。銀髪鬼を全員殺して、財産を子供に回せと言う。その次にはカバンを背負った笑顔のユウ。
「どうして」ジュリは何か言おうとした。声にならなかった。誰宛でもない問いだった。
どうしてそれだけの愛情を持っていて、平然と人を殺せって言えるの?
どうしてユーくんに本を読んであげないの?
どうしてユーくんの写真しかないの?
どうして妹さんのことを隠しているの?
どうしてあんなに奥さんが弱ってるのに三人目を作ろうとしているの?
まるで…
「…」ダンの家庭に抱いていたケーキのような甘い思いが、みるみる萎れてゆく。
「先生はこれを私に見せて、どうするつもりだったんですか」ジュリがようやく声を絞り出した。「私の近所にこんな人がいるからですか…あ」
何かに気づいたジュリ。頬から手を離すと、「どうしてこれが近所だってわかるんですか」と詰め寄る。ファセットには居場所を表示する機能がないからだ。
先生は「プラチナの特典だ」と言った。
「プラチナ?」
「知らないのか?プラチナプラン」先生がファセットの料金プランを表示する。見たことのない画面だった。ジュリの腕時計には体験版とプロ版の二つしか表示されない。それもそのはず、高額なプランは一定以上の所得がなければ表示すらされないからだ。それを契約すれば、プロ版の利用者がどこで発信したのか、仮に設定で隠していても閲覧でき、くわえてプラチナプラン契約者からは居場所を隠すことができる。
それなら…。
「それなら、非公開のアカウントを見れるプランもあるんですね」
「たぶんね」
先生は迷わず言った。ジュリは試合に負けた選手のように呆然としている。
「先生、なんで今日ウチにいらしたんですか。ジュリに恨みでもあるんですか」
サラが怒気を込めて先生を非難した。どうしても話しておきたいことがある。通話では伝わらないことだ。先生はそう言った。だから家に入れた。結果、ジュリが泣いている。
先生は口をしばらくもごもごさせてから、「知ってほしかったのかもしれない」と言った。そして「僕は君たちの人生を応援できない」と物憂げにつぶやいた。
****
「一人で大丈夫?」休日の朝、玄関でサラが言う。「平気。話しに行くだけだから」とジュリはドアに手をかざした。扉が瞬きをするようにスゥッと開き、ジュリが一歩踏み出して外に出ると、まぶたをとじるように閉まった。
どうしても話しておきたいことがある。まるで先生と同じ文言で、ジュリはダンを呼び出した。
「おう」レストランに入ると、ダンが手を上げて合図する。
床に散らばったゴミをよけながらジュリが席に着くと、適当に注文してダンの表情を伺った。その様子に、ダンは一瞬でジュリの気持ちを悟った。
「見たんだな?」
ジュリはうなずいて、「先生にも会った」と言う。
ダンが舌打ちして唸る。「その上司はなんて言ってた?」「君たちの人生を応援できない、って」
「頭の固ぇ野郎どもだ」ダンはテーブルに肘をついてため息をもらした。先生はジュリたちの仲間にダンのような人物がいることを知ってしまった。どれほど安全な活動をしていようが、上に訴えられれば、直接・間接問わず、さまざまな中傷をうけるだろう。
「どうしてあんなこと言うの」「あのなあ」ダンがさえぎる。「あいつらの贅沢で俺たちがどれだけ苦労してると思ってんだ?」「贅沢はしてないでしょ、強化服を持ってる人だってそんなに見かけないし」「それはメンテ企業が撤退したからだ。やつら文句ばっかで金を出さないからな」「それってお金がないんじゃないの?」「仕事もしない貧乏人ならなおさら役立たずだろ」
「そんな言い方…」ガシャン!と二人の話をさえぎるように無人機がコップを叩きつける。テーブルにジュースがしこたま散ったが、容量の20%までなら仕様の範囲内だ。ジュリは濡れていない部分を持って口をつけた。
昔はそんなんじゃなかったよね。最近ずっとイライラしてない?何を言っても爆発しそうに思えた。何でそんなに怒っているのか。
「そんなにユーくんが邪魔なの?」
ガタンッ!
「お前に何がわかる!」
ビーッ!
閑散としたレストランに警告の信号が灯り、客が一斉に注意を向ける。暴力行為のリスク。ダンの拳がジュリに向けられれば、即時、セキュリティが押し寄せるだろう。そうなればダンの家庭はおしまいだ。仕方なく腰をおろしたダンは、ファセットの放言で磨かれたこの上ない一言をぶつけた。
「養子すら持てない貧乏人のお前に何がわかる」
今度はジュリの心臓が爆発しそうになった。真っ赤な顔。ラビットのような真っ赤な瞳。ざまあみろ、といった顔のダン。
そんなふうに思ってたんだ。隠されていた本音を聞いたジュリは噛みつきたかった。けれどもここで自分が叫べば、今のダンと同じになってしまう。
「わかるよ」ジュリは震える声でもう一人の自分を押さえつけながら言った。「ダンがずっと苦しんでるって、わかるよ」
****
仕事から帰ったサラは、テーブルでぐったりとしたジュリを見つけ慌てた。だが腕の隙間からのぞくわずかな笑顔にほっとする。
「もー、脅かさないでよ」
その晩、サラとジュリはひとつのベッドに横になって、まるで時間を忘れて、思うことを好きなだけ話した。ユーくんをウチの子に迎えたい。どれくらい仕事を増やせばいいだろう。世話や家事の配分。愚痴。冗談。鼻毛が出てる。げらげら。
サラとジュリは笑い、愛する人とおしゃべりする気持ちよさに全身がとろけそうだった。なんて贅沢なんだろう。明日どれだけ眠くてもかまわない。世界中の幸せを独占しているような気分に、ジュリは罪悪感を抱いていた。
-- 了 --
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
(c) 2019 jamcha (jamcha.aa@gmail.com).
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