かいじゅうの国
学校からの帰り道,電柱のそばで泣く緑の怪獣に出会った。
「こんにちは! どうして泣いているの」
その声に,怪獣はとがった爪の隙間から,ぎょろりとした目をのぞかせる。「ぐすっ…あなたは?」
「私はヌー。いつものんびりしてるからヌー」怪獣は声をかけてくる相手の身体を頭から足先までながめてから,「あなたは私が見えるんですか」と言った。ヌーは周囲を見回す。こんな物がいれば見逃すはずもないが,とはいえ,こんな昼間に歩く者など誰もいない。「みんなはあなたが見えないの?」
「はい。友だちがほしくて,せっかくここまで来たのに,誰も私に気づいてくれないんです」「友だちがほしいの?」「はい」
「じゃあ私が友だちになってあげるよ」そう言ってヌーは泥だらけの手をはらって怪獣に差しのべた。「ほんとうですか。私の友だちに」「うん」「ありがとう,ヌー」
怪獣は鋭い爪の生えた手を伸ばし,握手をしようとした。ヌーはすかさず逆の手で怪獣の手の甲をつかみ,「これで友だちだね」と笑った。
怪獣は都会から来たそうだ。だが誰に話しかけても,みんな忙しそうに手に持った何かをいじるばかりで,怪獣の話を聞いてくれない。そうして何日も歩きながらここまで来てしまった。
「私はそれを持ってないから,怪獣さんが見えたのかもしれないね」ヌーは片手で板を持つ振りをし,指で手の平をなぞった。
「あの,もし,ヌーさんが良ければ,私の住んでるところに来ませんか」怪獣は牙を見せながら,爪でウロコだらけの顔をゴリゴリとこすった。「いいよ。私も行ってみたい」ヌーの言葉に,怪獣は目を細めて喜んだ。「でも,そんなに遠くまでは行けないよ。お母さんが心配するから」
「心配なく。すぐに着きますから」そう言って怪獣は大きな口を開けた。ノドの奥は真っ暗な闇へとつながっている。「私の口にお入りなさい。そこから私の暮らしている場所に行けます」
「私を食べてもおいしくないよ」「ここから入らないと,何千万年も旅をすることになりますが」「そんな長い間生きていられない」「ではどうぞ」怪獣は口の端を爪でクイクイと指す。
仕方なくヌーは上半身だけを開いた口に乗せようとした,途端に何かに引き込まれるような力があって,あっという間に全身が飲まれてしまった。
「ヌーさん,着きましたよ」怪獣の声にヌーが目を覚ますと,あたたかな日射しが差し込む森の中だった。ただ暖かいのに妙に身体がひんやりする。それは湿った葉の露がへばりついたからではない。「わ,私の服は」思わずヌーは茂みにしゃがみこんだ。「私の国ではみんなそうですよ」怪獣は自分も同じとばかり,自らの身体を指す。「でも,これじゃあ帰れない」「それならば,帰るときに代わりの服を仕立てましょう。ついてきてください」
怪獣の手首をつかみ,もじもじしながらその後を追う。怪獣の言うことももっともで,間もなくヌーの身体は汗ばみ,ぽたぽたと雫が垂れてきた。むせかえる熱気に,空気が腕となって肺をつかんでくるように思えた。
やがて森を抜け,眩しい光が目につきささってくる。「わあ」ヌーは声をあげてしまった。見渡すかぎりの草原に,どこまでも頭が見えないほど大きな怪獣,その足元をかけまわる二本足の小さなトカゲたち,そして大空を舞う黒い影の群れ。
その足音と振動。波紋のように流れてくる鳴き声。鼻をさすニオイ。全身を伝わる風に内側から熱くなるような,じっとしていられない気持ちになった。こんな場所を誰にも邪魔されず,何日でも駆け回ることができたら。
そうして歩きだそうとするヌーの手を怪獣が掴んだ。ヌーはその手を外から握りかえす。
「こっちですよ」怪獣は急かすように言って,森を片側にして進み出した。その足は速く,ヌーは何度もこけてしまいそうになる。「どうしたの。もう少しゆっくり見ていこうよ」
その理由はすぐに明らかになった。
「おい」ガサガサという音をたて何かが二人の前に立った。さっきのトカゲたちだ。その低い声は好意的なものではない。
「おい」再びからかうような呼びかけをし,ぎょろりとした目でこちらを見る。「暴れん坊が帰ってきたぞ」「なんだその後ろのやつは」「仲間か」「エサか」「弱そうだ」「ウロコがない」「尻尾もないぞ」
怪獣が目を合わせず避けようとするのを,トカゲたちは先回りして通さない。ヌーは目を伏せて黙り込んでいる。そんな様子にトカゲたちは調子づき,囃したてた。「おい」「なんか言えよ」「頭にしか毛が生えてないくせに」「おい」「暴れてみろよ」「泣くか?」「びびってるか?」「びびってる」「弱虫」
ヌーは顔を伏せたまま,ぽろぽろと涙を流しはじめた。それでも両手で覆ってなんとか声を押しころす。悔しかった。
「がうっ」
腹まで響くような音が鳴り響き,わっと言ってトカゲたちが離れた。ヌーの顔を覆う手を握り,怪獣はそのまま開いた隙間を抜けてゆく。
「怒った」「怒ったぞ」「短気」「おい」「もう一度吠えてみろよ」「がうがう」トカゲたちはヌーの後ろからどやしながら追いかけてくる。けれども怪獣の足は止まらない。「弱虫」「泣き虫」
それでも無視しつづける二人にやがて飽きたのか,トカゲたちは追うのをやめた。その姿が小さくなってゆく。
ヌーは腕のケガを湧き水で流していた。「ごめんなさい」強く握ってしまったことを怪獣は申し訳なさそうに謝りつづける。ヌーはそれを気にしないよう言ったものの,手首にはいくつもの切り傷がついて痛々しい。
流れる水を眺めながらヌーは学校でも同じようなめにあっていたのを思い出した。何度も。だから今日だって学校をさぼったのだ。ヌーは自分がのんびりした性格なのはわかっているが,でもみんなにそれを悪く言われると,なぜか悲しかった。そんな自分はここへきてもからかわれている。自分にダメなところがあるのだろうか。
「ケガの具合はどうですか」心配そうに怪獣が尋ねる。「うん,冷やしたから,血は止まった,と思う」「よかった。私の家はすぐそこですよ。そこで手当てしましょう。いいですか」怪獣はヌーを傷つけないよう,拳を握るようにして手をさしのべた。ヌーはそれを包むように握り,案内にしたがって歩きだした。
「確かこのあたりに…あった。あそこが私の家です」そう言って怪獣の指さす先,森のそばに茂みがあり,何頭かの怪獣が日陰に腰を下ろしているのが見えた。ただその顔は細長く,こちらの怪獣とは似てもにつかない。
「こんにちは」ヌーがおずおずと挨拶をする。その奇妙な見た目の訪問者に,訝しむ視線が向けられる。
「なんだいあんた,また変なのを連れてきたのかい」「そんなこと言わないで,友だちなんだ」ヌーの前に怪獣が立って,うったえる。
しばらく二頭,もしくは二人が話している。歓迎されているような雰囲気ではない。けれどもその間,あたりを見回していたヌーは,座りこむ怪獣のそばで小さく鳴き声をあげる子どもたちを見つけた。「わあ,赤ちゃんだ,かわいいなあ」
「ちょっとあんた,何してるの」顔を近づけて子どもたちを見ようとしたヌーは怒鳴られる。「うちの子どもに手を出したら承知しないよ」「すみません,そんなつもりじゃ」座っていた怪獣はなおも文句を言いながら,平たいクチバシを鳴らして脅してくる。その巨大さと,今にもつついてきそうな圧迫感にヌーは震えあがった。
「ヌー,お母さんたちはいま機嫌が悪いから,あっちに行きましょう。食べ物もありますよ」
ただ赤ちゃんを見たかっただけなのに。ヌーは怪獣に連れられて茂みへと入っていった。後ろでカチカチ音の鳴る様子が,先のトカゲたちを思い出すようで怖かった。
陽の差す湿った森。怪獣にとってこれ以上ないほどのごちそうが並んでいる。だがヌーの反応はいまいちだ。怪獣は適当な木の枝を曲げてヌーに見せる。「こちらの葉は食べられますか?」「うーん,お腹こわしちゃうかも」「ではこちらは?」無言で首を横に振る。怪獣は困った様子だった。せっかくおいしいものを食べさせてあげたいのに,ヌーは木の葉を食べられないのだ。「どうしましょう。ヌーはふだん,どんなものを食べているんですか?」
ヌーは顔を傾けて考える。心のなかでは,もう帰ろうかな,と少し思っていた。怪獣のことは好きだ。景色も,赤ちゃんも,きれいな水も。けれど,ここでは誰もヌーを快く思わない。食べられるものだってない。ただ,ここで帰ったら怪獣はどう思うのか。自分がようやくできた友だちなら,このまま帰ったらかわいそうだと思った。
「花,なら食べられるかも」ヌーは呟くように言った。「ハナ?」「こんな形の,木にたまに生える柔らかいもの」そう言いながら両手首をくっつけ,指を開く。
怪獣はそれを聞いてキョトンとしたようだった。「あんなもの食べるんですか?変わっていますね」そう言いながらも,怪獣は心当たりのある場所へヌーを案内した。
低い緑のなかに,色とりどりの花が咲いている。ヌーはそれをひとつとって口に入れた。「どうですか」「うん,おいしい」「それはよかった」美味というわけではないが,のどにひっかかる様子もない。つまんでは口に運んでゆく様子を怪獣は奇異な顔でながめている。ヌーは怪獣にも勧めたが,とても食べられない,といった様子で両手を振って拒んだ。
すると,ガサガサと音がして,「おい」と言う忌まわしい声がヌーの後ろから聞こえた。思わず身体がこわばる。「おい」「あいつだ」「おい」「ゴミ食ってるぞ」「汚い」あまりの言いように,ヌーは背中を丸めたまま動けなくなってしまった。すぐに怪獣が間に入って,かばうようにトカゲたちをにらみつける。
「侵入者」「お前侵入者だ」「ボスが呼んでる」「ボスだぞ」「呼んでるぞ」「ボスが呼んでるんだぞ」「すぐ行け」「行けよ早く」「行かないと死ぬぞ」
トカゲたちは,ボス,という名を出して二人を急かした。さっきまでのからかうような様子はない。トカゲたちも多少焦っているようだった。
「ヌー,行きましょう」怪獣が後ろから声をかけた。トカゲの顔さえ見たくないヌーは,目を下に伏せ,ほとんど閉じたようにしたまま怪獣の手に従った。
二人のあとからトカゲが一定の距離でついてくる。ヌーはようやく顔を上げて言った。「どこへ行くの」「私たちのボスのところです」
ヌーはあわてて怪獣の横に立ち,その耳に小声で話す。「そんなの聞いてないよ。もうこわい思いをするのは嫌」「ボスは親切な方ですから,心配はいりません」怪獣はヌーにあわせるように小声で答えた。
まばらに木々の生える草原に,怪獣たちが集まっている。そのなかに一際大きな頭と牙をもつトカゲが立っていた。
「…こ,こんにちは」ボスの前に立ったヌーは,怪獣の隣でやや伏し目がちに挨拶した。「うむ」とボスは鼻から大きく息を出す。生ぬるいケモノのニオイがヌーの身体まで届いた。
「ヌーは私の大切な友だちです。お礼に私たちのふるさとを案内しようと思ってわざわざ来ていただいたのに,あいつらが私たちをからかって」そう言いながら怪獣が指差すと,小さなトカゲの群れはひょいと他の怪獣の影に隠れた。
「そうか。それはすまないことをした。後で注意しておこう」ボスはアゴを指でなでながら返事をした。口を開くたびに鋭い牙が見え隠れし,その迫力にヌーはいつ自分が噛みつかれないか気が気でない。
「ところでヌーとやら」急に話しかけられたヌーは飛びあがるように驚く。「先ほど地面のゴミを食べていたそうだな。おまえたちの仲間はあれが食べられるのか」
ボスが話すたび,鼻をさすような悪臭が漂う。「はい」と答えたものの,不快な表情を出さないよう,必死に隠す。
「そうか…」ヌーの答えにボスは身体をかく。「実は我々の土地であのゴミが増えていてな。あれが木を食らうせいで,皆の食べ物が減っているのだ。このままでは我々が飢え死にしてしまう。おまえたちがあれを食べられるなら,どんどん食べて枯らしてくれないか」
ボスの問いで,その場にいた怪獣やトカゲが一斉にヌーを見る。ヌーは視線をあわせないよう顔を伏せた。「仲間がいるなら連れてきてもいい。歓迎しよう」
ヌーは何かを言いたそうな様子だった。けれどもそれがためらわれたのか,うつむいたまま,腕の傷を軽くなでた。
「私は,花を食べられます。けど,好きではありません。それに,ずっと,ずっと遠くから来たので,家族も心配しています。だから,帰らなきゃ。ごめんなさい」
そう言ってヌーはお辞儀をした。「ヌー,ごめんなさい。私」怪獣がヌーの腕に手をかける。「私こそ迷惑ばかりかけて,ごめんね」
ボスが親切というのは本当だった。それ以上聞かれることはなく,ヌーを安全に送り返すよう怪獣に伝え,二人はその場から解放された。
陽が傾き,大地が紅に染まる。怪獣はヌーを泉に案内した。それはヌーがケガを流した湧き水のそばにある。泉は底まで見通せるほど透き通っていて,光が弱まった今なお,底で水草のそよぐのが見えるほどだった。
「ここから帰れます」「こんなところに飛びこんだら溺れちゃうよ」「ここから入らないと,何千万年も旅をすることになりますが」「そんなに長くは生きられない」「ではどうぞ」
ヌーは泉に片足をつけた。心臓がとびあがるほどの冷たさだ。
ふっとヌーは怪獣を見て言った。「私…」そのまま黙ってしまう。
自分は知っている。怪獣にこれから何が起きるのか。花はこれからも増える。やがてそれが怪獣のエサになる木々を追いやる。食べ物のなくなった怪獣はその数を減らしていく。そしていずれ…。
「私たち,また会えるよね」にじんだ瞳でヌーが言う。怪獣はうなずいた。「もちろん。だって私たち,友だちなんですから」
そうして細い指と鋭い爪は指切りをかわし,ヌーはその身体を泉に投げた。
「ヌーさん,ヌーさん」
肩を叩かれる感触でヌーは目を覚ました。汗で身体がびっしょりと濡れている。「先生」
ヌーはあたりを見回した。冷房の切れた図書館。窓の外は暗い。自分は本を読んだまま眠ってしまっていたようだ。「汗でずぶ濡れよ。のどかわいてない?」「いえ,すぐ帰ります」「身体は拭かなくていいの?」「濡れてるほうが帰るとき涼しいです」心配する先生をよそに,広げた本をたたんで帰ろうとする。
「怪獣と友だちになる夢を見ました」その言葉に先生は笑顔になる。「そう。どんな?」「緑色で,爪と牙は尖ってて,でも,優しい怪獣です」
「尖った牙と爪?それって。ちょ,ちょっと待ってね」先生はその場に荷物を置いて駆けていった。間もなく新聞を持って戻ってくる。「ほら,これじゃない?」
新聞の小さな記事。そこには,この町で発見された恐竜の化石が写っていた。
「あ」あの爪だ。ヌーの心に,怪獣の笑顔が浮かび,目から涙があふれた。「ごめんね」
ヌーは何度も謝った。先生はヌーに肩をよせてなぐさめる。ごめんね。ヌーは泣きながら何度も謝った。怪獣はずっと約束を守ってくれていたのだ。あれから会えなくなっても。長い間,ずっと,ずっと。
先生と帰りながら,ヌーは怪獣のことを話した。そして大切な友だちとの約束を果たすために,会いに行くことを決めた。明日,新聞社にその化石のことを聞いてみよう。
「ところでその怪獣さんはどんなお名前なの?」「なまえ?」
そういえばずっと怪獣さんとしか言っていなかった。ヌーは新聞のコピーを取り出して記事を読む。
「怪獣さんの名前はね…」
– 了 –
原案: 小林さんちのメイ曲集「迷子のかいじゅう」
この物語はフィクションであり,実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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