片鋏のやどかり

若狭の漁師に生まれた真は,幼い頃より誰よりも深くまで潜ることを好んだ。父を亡くし,母と二人で暮らしながらも,長じて素潜りの名人となることを夢見ながら,毎日のように海へ入った。

その年はサザエが多く採れた。懐も温かくなった母は真に金を持たせ,せっかくの機会だから町を見てくるよう言った。父が真のために残していた服を着て,真は一人で町へ行った。町は人と音が絶えず,すべてが目に鮮やかだった。真は自身のみすぼらしさを恥じて,一晩で帰ろうと思った。

ところがその夜から空が急変し,数日にわたって町から帰る道が雨で閉ざされてしまった。真がようやく家に帰ると,壁と屋根の一部を残して流されてしまっていた。近所の人がやってきて言うに,母の姿が見えぬ。真はそれを聞いて平静だったので,人は真を奇妙に思った。

一人になってしまった真は,近所の船を手伝いながら,家を直し,月の明るい夜に潜る日々を送った。時折真夜中に波間から狼のほえるような声がするのは,真のものだったのかもしれぬ。

やがて真は体格も整って,自らの身体で稼げるようになった。町へ出ることも多くなり,そこでの付き合いも学んだ。ただ,真の心には常に深い海があった。町へ行くことはあっても,家から離れることはなかった。

その年,サザエが多く採れた。人々は不吉を感じた。事前に避難する者もあった。ある人が真の元にもやってきたが,真は「母を待つ」と一言いったきり家から現れなかった。そしてある日の夜,空がむやみやたらに大水を吐き出してきた。多くの人は避難し無事だった。だが真の姿がみえぬ。母に次いで真までも。人々は真の無謀を思いつつも,無事を祈った。

真が家で母を待つという気持ちは本当であった。すでに家はほとんど流され,真は無心で柱にしがみついていた。猛雨ゆえに,自身がいるのが海か陸か判然としなかった。ただひたすらに母の迎えを待った。

どれほどの時が経ったか。ふっと雨音が消え,明るくなった。波音さえ聞こえぬほどの静寂であった。真はついに迎えがきたかと目を開いた。

目の端いっぱいに月が広がっていた。下半分は海にすっぽりと覆われ,波なき面が月を反射している。はたしてこれがあの世というものか,と真は思い,同時にえもいわれぬ平穏を感じていた。

翌朝,崩れた家の柱に真が倒れているのが見つかった。誰もが悲劇を覚悟した。だが真は生きていた。起きあがると,真は海を見た。いつもの波間がある。真は周りに人がいないかのように,問いかけに応えず,海へ向かった。

ふと足下の砂浜に,片腕を失ったやどかりが歩んでいた。それを見て,真は母を待つのをやめ,町で暮らすことにした。



– 了 –



この物語はフィクションであり,実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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