顔
画家を志したイサは,美術学校で油絵を学んだ。そこで会った師を父のように慕い,めきめきと技術を上達させていった。ある日,師は病にたおれ,別の世界へと旅立っていった。傷心に暮れる間もなく,戦が始まった。イサは人が手足を腐らせウジにたかられていく様子を見た。
普段から胸ポケットに入れていた本は,銃弾を防ぐには心許なかったが,幸い,イサは生きて戦を終えることができた。だが,その後もイサの葛藤は続いた。私が尊い者を信じているのはなぜか。その教えに従って生きれば,死ののちにも平穏を得られるからだ。けれどもあのとき,その教えを信じる者同士が,互いに憎しみあい,その頭を銃弾で打ち抜こうと考え,またその身体を車輪で潰そうと考えていた。
自分は愚かな道化なのではないか。イサはそんな虚しさをおぼえた。それからイサはピエロの絵を何枚も描きながら,信じるもののありかたに苦悩する。
そのうちイサはこれまで以上に自分の内に注目するようになる。尊い者が姿を見せることはない。それなら私は尊い者をどのように捉えてきたのだろう。しぜんと筆が動き,描かれたのは顔だった。それは尊い者の落とし子の顔だ。昔,その者は世を救うために現れ,人のあり方を教え,そして人の手によって去った。
イサは描かれた顔をまじまじと見た。自分とは似ても似つかぬものなのに,イサはその顔に自分自身が映っているように感じた。描くたびに表情が変わった。きりっとした顔。柔和な顔。いずれも輪郭は際立ち,素朴な雰囲気をもっている。自分のなかにこんな気持ちがあったのか。イサは胸の内から風が吹くような目覚めをおぼえた。
その晩,イサは夢を見た。草むらに寝そべり,澄んだ夜空をながめている。イサは街中で暮らしていたから,これだけの星に囲まれて夜風を感じることはない。そんな夢の中でも,月は丸く自分の身体を照らしている。尊い者の子が食事をとっていた遠い昔から,イサがこの世界を去った後も,月は大地を照らしつづける。
ふっとイサは目を覚ました。何かがのりうつったかのようにキャンバスに向かい,それから一心不乱に筆をはしらせた。描かれたのは風景だった。尊い者の子。その誕生を祝福する人々。そしてそれを照らす日輪。
日輪はその後もイサの絵についてまわった。描いていると,いつのまにかそれが加わっている。部屋の中を描いていても,気づくとそれが窓の外から顔をのぞかせている。この丸い光は,自分に何を伝えようとしているのか。
あるとき,アトリエに差し込んだ西日が,キャンバスに描かれた日輪に重なった。光沢のある表面がきらきらと光を反射し,イサの目に飛び込んでくる。それは身体の奥深くにある芯とつながり,ある思いをわきあがらせた。
尊い者はいつも見守っているのだ,と。
イサは晩年に顔を描いた。背中に隠れた日輪が優しく輝き,その表情はどこまでも穏やかなものだった。
– 了 –
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