ドライブ
バレンコの研究室にエムが怒鳴りこんできた。「先生」
打ち合わせ中だったバレンコはエムの大声に眉をひそめる。
「私の後任にソフィアを指名するって,私をクビにするということですか」
怒りの蒸気を鼻から吹きだし,エムは睨む。嫌悪の一瞥を加えるバレンコ。
バレンコとエムの間で狼狽していた背広の人物は,顔の汗をぬぐうと「では先生,続きは今度ということで」と言ってそそくさと退室してしまった。バレンコのラボが揉めている。これはいい話の種になるぞ,と心の内で笑みを浮かべながら。
「クビかどうかは君自身が判断することだ。少なくとも私のラボで君が実験することは今後二度と許さない」
「クビと何が違うっていうんですか」
「給料は出るだろう?それで満足じゃないか」
「私はカネのために研究者になったんじゃない ! 」
ドン ! エムが拳を壁に叩きつけた。隣の会議室のプロジェクタが揺れ,ミーティング中だった人々は「またかよ」とうんざりしながらプロジェクタの位置を修正する。
バレンコは溜め息まじりに言う。「ニューラルコーディングの研究は新たな段階に入った。私の方針に逆らうかぎり,西海岸で君の実験に参加する者は永遠に現れない。永遠にだ」
手をぎりぎりと握りしめながらエムは言う。「まだニューラルコーディングは終わっていない。ヒトの意識を解明する重要なヒントを与えてくれる。きっと」
「それは私のラボの方針とは違う。自分が正しいと思うなら,ここを出てどこへでも行けばいい」
バレンコが冷たく言い放つ。互いの関係はもはや修復不能だった。
「…私の考えを理解してもらえないのなら,残念ですがそうさせていただきます」
エムは頭を下げて言った。「今までお世話になりました」
こうしてバレンコの右腕エムは研究室を去った。
バレンコは数々の賞を受賞した偉大な研究者だが,その功績の半分はエムによるものである。とはいえ,バレンコの後ろ盾がなければ,エムは年齢的に旬を過ぎた一市民でしかない。そんなわけで,知り合いのつてをたどり,エムは中西部にあるデブルーインの研究所へ向かった。
デブルーインはエムの二十年来の友人で,また国を代表する一流の研究者である。やがて新たな神経モデルを提唱し世界に衝撃をもたらすことになるのだが,それは十年ほど先のことだ。
近くのバーでトマトサンドをかじりながらデブルーインは言った。「まず言っておきたいのは,私のラボで君を雇うことはできないということだ」
「年齢か?」エムが言う。デブルーインは「そうだ」と言った。
「若くて優秀な研究者はいくらでも生えてくる。かたや予算は限られている。彼らの生活を確保するためにも,地位にしがみつこうとする者たちには退場していただかなければならない。わかるな?」
「もちろん」とエムは言った。「ひとつ誤解をといておきたいのは,私は地位にしがみつくつもりはないということだ。地位なんてないからな」
はは,とデブルーインが声だけで笑う。エムはアボカドのパスタをソーダで流しこんで続けた。「ただ,君のラボで処分しようと思っている物品をいくつか提供してもらえれば,それで十分なんだが」
「そうだな…」とデブルーインは腕を組んだ。「償却が済んだ設備はいくらでもあるが,個人に譲りわたすと規則違反になる」「わかっている。がらくたでもいいんだ。何かないか?実験機材ならなんでもいいよ」
「それなら,私が個人的に購入したものがいくつかある。かなり古いが,それでもいいか?」
「大歓迎だ。いつ引き取りに行けばいい?」
デブルーインは時計を見て言った。「17 時に勤務が終わるから,その後家に来い。18 時でいいか?」
「オーケー」
デブルーインの自宅ガレージにおかれた機材を見て,エムは「オッオーウ」と衝撃にふるえた。
まるで原始時代に帰ったようだ。
「本当にいいのか?」デブルーインが心配そうに言う。ただエムの表情は明るかった。「まるでバレンコ先生とラボを立ち上げた頃を思い出すよ」
その無邪気な笑顔は,デブルーインの若き頃を思い出させるようでもあった。「実はちょっとした仕掛けがあってな。フォルクスワーゲンが見えるか?この機材をあのバンに入れれば移動実験室になるんだ」
「ははっ ! そりゃすごい ! 」感嘆するエムに,「積み込むのを手伝ってくれ」と腕をまくるデブルーイン。
まるで子供に戻ったように,二人は夜遅くまでガレージで作業を行った。
ソーダを飲みながら,エムが完成した移動実験室をながめている。四角四面の地味なワゴン。だがリアハッチを開ければ,いつでも参加者を受け入れ可能なユーティリティーラボになるのだ。
「心は若き研究者よ,健闘を祈る」デブルーインはエムの肩をつかんで言った。「心は,は余計だ」とエムは笑った。
それからエムは車を走らせながら,実験参加者と新たな就職先を見つけるために,東へ東へと進んでいった。エムの実験は適性がある人しか受けられないので,医療機関にひとつひとつ問い合わせては辛抱づよく交渉する。そうして参加してくれる人が見つかると,駐車場に車を止め,実験データを取る。顔にシワを刻んだ者には似合わないドブ板営業を続けながら,夜はファミレスやファストフード店で論文を書きつづけた。
西海岸から中西部を経て始まったエムの就職活動は,なんと東海岸の果て,国境沿いにまで及び,そこでようやく終わった。エムを雇い入れたのは,政府ができる前に作られた,最古の大学のひとつだった。伝統はあるが,キャンパスのほかには緑が広がるばかりののんびりした場所である。エムは素朴な研究生たちを持ち前の馬力で導き,研究室を急速に発展させていった。その後の活躍については言うまでもない。
エムが東海岸へたどりついてから十五年。再び西海岸の研究所へ帰ることになった。新たに作られたセンターの室長という肩書きをもって。バレンコは既に職を退いてはいたが,当時を知る幾人かはまだそこにいた。
一人が冗談まじりにたずねる。「先生を恨んでいるか?」
エムはフフン,と鼻で笑い,「トロッコ問題の正解をたずねているのか?」とだけ言った。
– 了 –
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