気になるアカウント

「なんか、ネットでちょっと気になる人がいるんだけどさ」

お昼時、ビビがミニカツ丼の具をスプーンですくいながら言った。隣でざるそばをすすっていたヨコが「え?誰?」と聞き返す。

「知らない人なんだけど、なんか、言ってることに味があるんだよねぇ」

「何それ」しんみりした口調のビビに、思わずヨコが吹き出してしまう。「どんなこと言ってんの?」

「『言葉の力とかぬかしてるんなら質問箱なんて他人の道具に頼ってないで自分の言葉で語れよ』とか」「へえ」「『創作論なんて寝ぼけたこと語ってないでとっとと話のひとつでも書いてこいよ』とか」

ぞくり、とヨコの背筋に冷たいものが流れる。

「あー…結構きつい言い方だね」「でしょ?それでね、その人も我に返ってすぐ消しちゃうんだよ。だから一日中監視してる」

「はぁ!?」

ビビの口から次々と発射される言葉のミサイルに、ヨコは箸を持つ手が止まってしまった。

「それやばくない?監視って、何してんの?」「気が向いたときにスマホで見て、いいなって思ったやつが消される前にスクショ取る」「ストーカーじゃんそれ」「何で?何で向こうがウチのことも知らないのにストーカーになんの?」「だって、つきまとってるから…」「つきまとってないじゃん。話しかけたこともないし誰にも迷惑かけてないのに、何でそんなこと言われなきゃなんないわけ?」「えー…なんか気持ち悪いよ」

「は。ヨコにそんなこと言われる筋合いないんですけど」お新香を残したままビビが立ち上がった。「せっかく面白い話したのにストーカー呼ばわりされるなんて最悪だよ」「ごめん…」「机のM & M'sもらうからね」「うーん…」

ショールを羽織ったビビはポーチを持って店を出ていった。残されたのはヨコと、ざるに半分ほど残ったそば。

けれどもヨコは、胃が逆流するほどの緊張におそわれ、もはや麺一本も喉を通らなかった。

ビビが見つけたアカウント、それはまぎれもない、ヨコのものだったからだ。


彼の仕事が不安定だから。それだけの理由でヨコの両親は結婚を拒み、ヨコは荒れた。ふざけんな。私が寂しい夜に電話をかければ車で来てくれる、そんな優しい人間が、私の話をうんざりしないで4時間聞いてくれる、そんな優しい人間が、他にいるもんか。

金か。結局金か。金なんだな。クズどもが。てめえらが足腰立たなくなっても介護なんかしてやんねえよ。

手の平にある小さな機械に向かってヨコは思いをぶちまけた。その機械は広大な世界に開かれている。いや、むしろそのことが背中を押して、ヨコは秘密の自分をさらけ出していた。吐き出すことが気持ちよかった。

それが知人に捕捉され、そして見られていたとも知らず。なんという偶然。なんという不幸。

ふおーっ。ヨコはトイレの個室で頭を抱えた。


午後になってもヨコはうわの空で、まるで魂が抜けたように全く仕事が手につかなかった。机の上のM & M's (クリスピー) が無くなっていたがそんなことはどうでもよい。

「すみません。調子が悪いので、早退します」

ふだんなら事情を聞く上司。けれどもその日はすぐに帰宅を許可された。その真っ青な顔は同僚さえ心配するほどで、ヨコはふらふらと亡霊のように会社を出た。

人間の帰巣本能とは素晴らしいもので、気がつけばヨコは自宅のベッドに上半身をあずけていた。深呼吸すれば戻してしまいそうなので、ゆっくり、ゆっくりと息を吸う。そうして肺に溜まった闇の何かを吐きだすと、同時に涙が出てきた。

そんな気持ち悪いやつがいるなんて思ってもみなかった。しかも、自分みたいな20人も見ていないようなアカウントを。ふつう、そういうことするやつらって、何万人にもフォローされてる人とか、そういう人気者相手にするもんじゃないの?ストーカーじゃん、それ。

「…」

ヨコは顔を起こして、その日の分の投稿をした。投稿が途切れてむこうに勘付かれてはならない。

「…」

電源を切って、アカウントも消して、すべて消し去りたい気分だった。気持ち悪い。恥ずかしい。我が友よ、何ゆえこのような恥辱を我に与えたもうか。

ビビの変態!変態!

虚空にむかって罵倒しても世界は変わらない。

「そんなこと知ってんだよ!」


****


翌朝になってもヨコの体調は回復しなかった。むしろ悪化していた。シャワーを浴びても、身体にまとわりついた違和感がこびりついて離れない。ヨコは会社に休みの連絡をして、何件も入っていた通知も無視し、雑に頭を乾かしてベッドに横になった。腸がゴロゴロするような不快感。

ヨコはボーっとした頭の思うままに任せていた。空襲警報が鳴り響く。昭和二十年六月、昭和天皇は本土の戦闘能力が完全に喪失しているのを知らされ、なおも母は帝都を去らないと聞き、胃腸を害して倒れた。私は昭和天皇だ。絶望という言葉すら生ぬるい状況で、なおも必勝を呼号せねばならないとは。

本田宗一郎が「やはりタイヤはブリジストンに限るね」と言いながら笑顔で自転車をこいでいる。マーティン・ルーサー・キングの演説を最前列で聞いていたがよだれがすごく臭い。ガッツ石松から幻の右を学んだ私はボウリングでスコアを更新した。ロッカーのどれか一つに隠れているビル・ゲイツを見つけてしまったら腎臓を赤十字に寄付しなければならない、そんな年末企画。松本人志のギャグに合わせて笑い声のボタンを押す仕事。


…♪…♪…♪…


鳴り止まない木琴の音に、ヨコは目を覚ました。

着信音だ。

相手を確認すると、全身の血が一瞬で沸いた。

ビビ。

表情を失った顔で、ヨコは『応答』のアイコンを押し、耳に近づける。

『あ、いま、だいじょぶ?』ヨコがもしもしと言う前に、ビビの高い声が届いた。無理とは言えないヨコが、「うん」と答える。

『昨日、ごめんね』「ん」『ひどいこと言っちゃって』「…そういうのじゃないから」

別れさせられた彼と違って、ビビはヨコの話を聞かない。ヨコの心のもやもやを取ってくれるわけでもないので、早く会話を切り上げたい、そんな気持ちの裏で、突き上げる衝動にもかられていた。

『ほんとごめんね。M & M's、注文したから、今度あげるね』「いらない」『…』

ヨコが昨日早退して、今日も休んだ原因はビビにある。ずっと自分を責めていたのだろう。そんなのとは比べ物にならない苦しみをヨコは味わっていたわけだが。

『どうすれば許してくれる?』「許してほしいならもう二度と私に話しかけないで」

弱々しい声でたずねるビビに、ヨコは冷たく言い放った。

『…』

沈黙するビビ。今までなかった状況に、ヨコは心のどこかでわくわくし始めていた。いつもは偉そうなビビに、やれやれといった調子で付き合うヨコ。そんな立場だったのが、いまや逆転している。しおらしくなったビビに新たな魅力を感じている。けれども二人の仲は引き裂かれてしまった。もうビビと話す機会もなくなるのだろう。

『いやだよ』

ビビが震える声で言った。『ヨコと話せなくなるなんてやだ』

「!」

思わずヨコの顔が耳まで赤くなった。なんて大胆なことを言うんだろう。ビビが続ける。『ずっと憧れてたんだよ、頭よくて、優しくて、美人で。だから今まで甘えちゃってたんだと思うんだ。これから直すから、だから嫌いにならないで、お願い』

んほー!

ヨコはうれしくて飛び上がりたい気分だった。ほめられるのが好きで好きでしょうがないヨコに、ビビの本音が心の栄養としてしみこんでいく。ヘッドバンギングしたいのをこらえ、歓喜にけいれんしないよう目一杯身体を伸ばす。

「憧れ?」『うん。初めて会ったとき、きれいな目だなって、ドキドキした』

ヨコが心のなかで思い当たる。そうか、ビビがいきなり私にどんなコンタクト入れてるのか聞いてきたのは、そういうことだったのか。

『ヨコと話したくて朝起きられるようになったのに、遅刻しないようになれたのに、もう話せないなんて…そんなの…いやだよ』

はー…。はー…。興奮しすぎて鼻血が出る、そんな気分だった。胸が高鳴りすぎて目の前が白黒する。

ごくり、と生唾を飲み込み、息を整えながら、ヨコはつとめて冷静に言った。「いいよ、今回は許したげる」

その直後、音割れする喜びの声が耳に突き刺さった。『ほんと!?やったー!』感謝の言葉を次々に打ち出すビビ。

ふひひ。

鼓膜の振動がホルモン汁を噴出させ、全身が若返る。肌がクリーム色の輝きを取り戻す。元気を取り戻したヨコはキラキラと瞳を輝かせ、午後から出勤できる旨を上司に伝えると、許可を得てから軽快に身支度を整えた。

ビビの気になるアカウントがヨコのものであること、それは二人がおばあちゃんになる頃に打ち明けることにしよう。



-- 了 --



この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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