紫虎全書

皇帝・紫宗 (しそう) は悩んでいた。近頃,文武官がやかましいのである。とやかく自分の方針に口を出そうとしてくる。紫宗が怖いのか,彼らが直接言ってくることはないけれども,風の便り,いや,暴風雨のように,好き放題言っているのが伝わってくる。そのなかには紫宗の治政をほめたたえるものも多いけれども,そんなことで口を開く暇があるのなら,その時間手を動かして働いてほしいと思っている。

とはいえそこで黙れと言おうものなら反発をかう。彼らは周りの者より少しばかり得意なことや,知っていることがあるので,自分のことを賢いと錯覚している。立場が上の者にしか謙虚にならないわりにその自信はすこぶる厚く,それでいてもろく,些細なことでひびが入り,おかしくなる。土台を作らずに年月ばかりかけて積んでしまった塔のようだ。まあ,壊れてしまえばその首を刈り取ればよいだけなのだが,仁君のほまれ高い紫宗の肩書きを傷つけるわけにもいかないし,それに大勢始末すると,代わりが確保されるまでに時間がかかる。そんなわけで,彼らを壊さずに黙らせるためのよい方法はないものか,紫宗は思案に思案を重ねていた。


それは紫宗が巻狩りに出かけた日のことだった。見たこともないほど大きな虎が,叢から飛び出て紫宗らに襲いかかった。降りかかる矢をもろともせず,丸太のような前足で,名刀のような牙で,次々と仲間の猛将たちを葬ってゆく。ついに最後の一人となった紫宗。とどめを刺さんと飛びかかる虎。だが紫宗は見事な構えで弓を向けると,虎の額めがけ最後の一矢を放った。

どう,と虎がほえた。眉間に矢を突き立てたまま,身体をくねらせて地面でのたうちまわる。ついに虎は降参し,紫宗の武勇をたたえると,矢を抜いてくれるよう人の言葉で話した。それを受け入れて紫宗が引き抜くと,血が一滴もついていない。聞けば,虎は西域の天帝に仕える聖獣・独虎仙 (どっこせん) であるという。

虎は自分を見逃したかわりに願いをひとつかなえると言った。紫宗はすぐさま部下になれと言ったが,天帝の使いである虎にそれはできないという。すると紫宗は文武官がやかましいので黙らせたいと言った。虎は,口も開けないほど働かせればよいとだけ言い,その身を叢に投げた。紫宗は草をかきわけて虎を追ったが,足跡さえ残っていなかった。紫宗は爪を噛んだ。黙らせろ,と言えばよかったことを後悔した。


紫宗が宮殿へ帰ると,文武百官が出迎え,紫宗の武をたたえた。虎の襲撃を逃れ,生き残った者が紫宗の虎退治を伝えたのである。紫宗はその者に褒賞を与えるため,家族たちもあわせて呼び,まとめて死を賜った。翌日はよく晴れていたので,紫宗が表へ出ると,地面に書が並べられているのが目についた。聞けば,虫干しをしなければ本がだめになるという。紫宗はその晩,腹心の部下を呼んだ。


燃えつきた書庫の前で文官たちが呆然としている。先王朝の時代から守りぬいてきた知の遺産が,何者かが放った火によって跡形もなく消え去ってしまったのである。紫宗は悲しみ,国をあげて編纂事業に取り組むよう号令をかけた。内憂外患の時期にあって,かような命が下されたことに憤る者もあったが,書なくして文治はなしえない。文武官の日々の勤めに,筆を振り,諸国の記録を集める役目が加わった。

紫宗は満足であった。とくに辞書の編纂に関わる者は,昼夜もなく働くので,不満があってもそれを口にする暇がない。しかし,もやもやと鬱積した思いはいつ破裂するともしれない。それまで紫宗の治政をたたえていた者も,身内にそんな者を抱えていては,気軽に口を開けない。

自らを賢いと錯覚する者ほどよく働いた。自分がいなければ周りが困るだろうと思い込み,その責任感から壊れるまで働いた。そうして用済みになった者一人ひとりに紫宗は手紙を送り,その栄誉をたたえ,褒賞を与えた。


長い年月をかけ,喪失した書に匹敵するだけの叢書,辞書が著された。それらは紫宗の偉業をとって紫虎全書と名づけられた。紫宗が崩御した後もそれらの書物は文化の象徴としてありつづけた。宮殿が西の大国に攻められ,焼け落ちたときも紫虎全書は守られた。だがついには書の守り手も根絶やしにされた。書物はぬかるんだ地面で砲車を運ぶための下敷きにされ,すべて失われた。



– 了 –


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