009
寵姫ベンテンは離宮を支える大樹である。はるか昔,海辺の若芽に陛下が祝福を施した。それは波間をただよった果てに岩礁に留まり,やがて天を衝くまでに生長した。陛下はこれを喜び,気温の高まる時期に静養するための離宮をここに建てたのである。ゆえに,離宮が帝国に従うことはあれ,謀反を起こすなど考えにくいことだった。
跪くエッジのそばにデクとアレクがやってきてしゃがみこんだ。精霊と心をかよわすファランやパオラと異なり,エッジは寵姫の言葉を直接解することができない。そこでデクが寵姫の口,アレクが耳の役割を代わりに果たし,寵姫と意思の疎通を行っている。とはいえ,こうした場所まで案内されたということは,大樹の力が何かしら弱まっていることがうかがえた。
『久しぶりですね,配達人さん』エッジの耳元でデクがささやく。それに返事をするため,エッジは髪をかきあげたアレクの耳に小さい声で話しかけた。「寵姫様もご無事で何よりでございます」
その言葉とは裏腹に,エッジは気が気でなかった。ファランやデクはなぜひそひそ話すような小声だったのだろうか。自分もついそれにならってしまったが,寵姫の状態はそれほど悪いのだろうか。もしかして,注意しなければその声が届かないほど弱っているのか,そう思った。
すると,ふいに皆がくすくすと笑う。きょとんとした顔のエッジ。それをパオラが指差してからかった。「もう,堅苦しい挨拶はいらないってさ!」
パオラの顔を見たエッジは,その言葉の意味に気づくと赤面した。だがその顔はすぐにほころび,身体に溜まっていた重い空気が晴れたように思えた。
『たやすく騙されおって。まったく,からかい甲斐のあるやつじゃ』デクが低い声で寵姫の意を伝える。エッジにとっては聞きなれた調子だ。以前訪れたときは,デクのあまりの口の悪さにびっくりしたほどだった。事実,荒波の中で育ったこの大樹は,寵姫とは呼ばれているものの,その気性は荒く,どこまでも強気である。
「ああ,びっくりした。寵姫様も人が悪いですよ」そう答えながら,デクの手に引かれエッジも立ち上がる。『ヌシも仕事とはいえ,こんなときに宮を訪ねてきたことには感謝しておる。長旅で疲れておるじゃろう。どうじゃ,皆と食事でもしながら,積もる話でもいたそうか』
デクはアレクに目くばせする。アレクは皆に目を向け笑顔で聞いた。「姫様がこう仰られておりますが,みなさまいかがですか」その提案にパオラが手をいっぱいに伸ばし,「さんせーい!」とまっさきに答える。エッジはファランと目を合わせうなずくと,「宮の皆さんに迷惑にならないのであれば」と誘いに応じた。
謁見の間からやや進むと宮殿の外に出た。枝に守られた筒のような道を案内されてゆく。しだいに,濁流のような轟音が響き,その合間に,かすかに笛や弦楽器の音色がまざっているのが聞こえてくる。やがてしぶきをあげて流れ落ちる滝が現れた。会話さえかき消すほどの音はここから生じていたのだ。では楽器の音色はどこから来るのだろう。
デクとアレクはその滝の前に立つと,手を大きく払う動作をとった。すると,滝の真ん中に線が入り,左右に割れていく。
強い光にエッジたちの目がかすむ。そこからは突き抜けるような青空と,はるか下に離宮の色鮮やかな街並みが広がっていた。なんと,その宙の上に神官たちが集まって,並べられた料理をとりながら談笑しているではないか。
足がすくむエッジをよそに,デクとアレクがためらいなく足を空に踏み出していく。「我らが宮の宴会場でございます」「みなさま,どうぞこちらに」
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