021
東の空には黒い雲がたれこめている。今の離宮には青い空が広がっているものの,やがて天気は崩れるだろう。離宮に残った人々は,それまでの間,爽やかな風と陽気を全身で楽しんでいる。
大樹に隠された力とエッジの活躍によって,帝国の大船団は撃退された。次に帝国がやってきたときも何とかなるのではないか。離宮の人々はそんな期待を薄々と感じている。このまま守勢に転じていれば,いずれは周辺の国々が帝国を追いつめてくれるのではないか。そう思ってもいる。エッジはというと,先方がこのままで終わるとは思っていなかったが,そんなことより,今は自分にへばりつくパオラを説得するのに必死だった。
「ねえ,誰と会ってたの」
パオラはエッジの身体に大樹の香りがしみついていたことを不審に思った。神官に手を出したのではないかと訝しんでいるのだ。エッジが寵姫に会ったということを正直に説明しても信用されない。パオラと言葉をかわせる寵姫はとぼけているようだ。顔が真っ青なエッジと対照的に,パオラは顔を真っ赤にして怒る。日頃大人しい様子なのはこのときのためか。これまでにどれだけひどいことをしてきたのか。しらをきる様子なのが余計に小賢しい。とんでもないやつだ,とひたすら責めたてている。エッジは途方に暮れた。きっとこんな様子を寵姫はさぞ楽しんでいることだろう。
「本当なんだ。寵姫様が目の前に現れたんだよ」「じゃあどんな姿か言ってみてよ」そう言ってパオラは顎をつきだす。全く信じていないのだ。エッジはすぐさま言葉のかぎりをつくして,どれだけ魅力的な容姿か説明した。
それを聞いたパオラは,いったん真顔に戻った。エッジの目に期待がともる。だがそれは一瞬だった。パオラは前よりも怒りに満ちた声で怒鳴った。「でたらめ言うのもいいかげんにして」エッジの身体を激しくゆすりながらわめく。
あまりの騒ぎに神官たちや街の人々が集まってくる。ファランはいつものことだと苦笑いしながら説明する。ひたすらパオラに追い立てられるエッジを皆が笑った。束の間の平和だった。
「配達人さま」
ふいに自分が呼ばれ,パオラの両手を持ったままエッジがふりむく。アレクが真剣な顔で立っていた。「姫様がお呼びでございます」並々ならぬ様子にエッジの表情もひきしまり,それを見たパオラも冷静さを取り戻していく。
「パオラ,寵姫様が何か言ったの,聞こえた?」エッジの問いにパオラが首を横に振る。ファランの方を見ても同様だ。「エッジが怒らせるからだよ」そう言って顔をふくらませるパオラの頬に触れ,エッジは「ごめんね」と何度めかわからない詫びの言葉を述べた。
「皆さま,嵐が来ます。宮へお入りください」アレクとデクが外にいた人々に呼びかける。真上には雲ひとつかかっていないというのに。そう思いながらも,人々は指示に従って宮殿へと戻っていく。最後まで残っていたエッジたち三人は,東から迫る黒雲をながめていた。
吹いてくる風にまざって,なつかしい匂いを一瞬感じた。鼻のしびれるような冷たい香りだった。
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