024

ふっと背中にやわらかい感触があった。

「エッジ!…もうおしまいにしましょう」

やさしい声が耳に届いた。エッジは構えを崩さずに返事をする。「まだだ。まだ私は戦っていない」

「こっちを見て」冷たい手が肩をつかみ,ゆっくりとふりむかせる。

ファラン。エッジはこみあげる気持ちを必死で抑えるように,無言のまま震える息を吐いた。その様子を苦しげに見つめながらファランが言う。「もう十分です」「まだ私は何もしていない」エッジがすぐさま否定した。

「あれだけの船を追い払ったじゃないですか」「いま私が引きさがれば全てが無駄になる」「代わりにここを焼け野原にするんですか」

エッジは何か言おうとした。だがファランの顔を見ることができなかった。エッジが戦って離宮があとかたもなくなれば,それこそ帝国の思惑通りになるからだ。

あれだけ激しく降っていた雨が止んだ。雲間から光がのぞき,かつて離宮の街だった黄土色の地面を照らす。それとともに,エッジの双剣に渦巻いていた気も消える。

「私は降参していない」そう顔を伏せて答えるエッジに,ファランが優しく微笑みかける。「そうですね。寵姫様を,最後までお守りする仕事がありますからね」背中を軽く手で押しながら,ファランはエッジを宮殿へと促していった。



「エッジ!」

時間をかけ宮殿に戻ったエッジを歓迎したのは,パオラの小さな手ではなく,丸太のような二本の腕だった。全身が文字通り総毛立つ。「久しぶりだな!」それは輝くような笑顔で再会を喜ぶ。

すさまじい力で骨がきしむなか,エッジはようやく声を絞り出した。「イヴン…さん,おひさしぶりです」埋もれた胸ごしに顔を上げ,ぎらついた双眸と目が合う。二人が知り合いであることに,神官たちは口元を隠してひそひそ話す。

ようやく解放されたエッジは室内を見回した。謁見の間。神官を含め,離宮に残った人々が不安そうにこちらをながめている。そしてそのなかに,こちらを不安そうにながめる踊り子の姿があった。

「パオラ,ただいま」

その声を聞くや,小さな影が顔を歪めながら飛び出し,エッジに抱きつくがはやいか大声で泣き出した。エッジはその髪をなで,パオラが無事であることを全身でかみしめた。

「おまえ,まだあんなことやってんのか?」先にエッジを絞りあげた大柄の人物が話しかける。エッジは相手の腰ほどの背しかない。それだけ大きいのだ。「…楽しいですから」パオラにくしゃくしゃにされる服装を引っ張りながら,エッジは答えた。「そんなことより,どうしてここにいるんですか」

「どうしてって,ここを潰すためだよ」あっけらかんとした様子で答えた。空気が途端に重くなる。エッジは困ったように頭に手を当て,すぐに別の質問をする。「ええと,そうではなくて,どうして私よりも先にここに来れたんですか。門は閉まっていたはずですが」

「そうか?入れてくれって言ったら開いたが」「姫様の仰せでございます」「雷神様をご案内するようにと」大柄な人物の答えを受けるように,神官アレクとデクが言った。部屋がざわつく。「ところでその姫とかいうやつにはどうやったら会える?」周りを気にもとめず,豪胆な様子でエッジにたずねた。その問いに,エッジは寵姫の正体を思い浮かべる。「…会えるかどうかはわかりませんが,会ってどうするんです」「そんなもん,帝都に連れてくにきまってんだろ」

皆が騒然となる。敵意が憎悪に変わるのをなんとかしなければ。パオラを抱いたまま,エッジが皆に向かって言った。「みなさん,この方は悪い方じゃないんです。黒の眷属を倒せたのも,ここにいるイヴンさんのおかげなんですよ」

黒の眷属,そしてイヴン。ここにいるのは,まさか黒曜の脅威から帝国を救った九聖の一人,雷神イヴンだというのか。神官は口々に言う。それならなぜ自分たちを攻撃するのか,もしくは雷神を前にして皆の命が今もあることに感謝すべきか。

エッジの言葉はかえって場を混乱させてしまったようだ。人々のざわつく声がどんどん大きくなる。まずい。

そんな雰囲気をふりはらったのは,ひとつの澄みきった声だった。

「皆の者,ここをどこだと心得ておる。口を慎しむがよい」





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