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「おぼえている,とは?」音ノ眼皇が聞き返す。寵姫の身体が震えている。
「陛下が水の坩堝ごと水神を御沈めあそばされた,あの夜明け」寵姫が手がかりを与えるように言う。だが音ノ眼皇は「ふむ」と記憶をたどるようなそぶりを見せるのみで,かすりもしない様子がうかがえる。
「陛下は陸地の消えた海を悲しそうにながめておられた。ゆえに余は,その砂浜で,芽吹いた。陛下のされたことは,次代につながるものであったと,正しいことであったと」
その目が潤んでゆく。「…それを,陛下にお伝えするために」そう言ったきり,寵姫は黙りこんだ。
「そうであったか」音ノ眼皇が気遣うように言う。「わたしは水の主との関わりについて,先代や先々代から受け継いだ記憶はない。すぐに調べさせよう」
すると寵姫は顔を隠して目を拭い,パッと表情を変えた。「いや,はるか昔のことじゃ,忘れてほしい。それより,こうして達者な陛下を我が目に留めることができた,それだけで余は幸せじゃ」そうして深々を頭を下げた。
「ベンテン殿には苦労をかけてばかりのようだ。水の宮では雷神が随分暴れたそうだが,この戦が終われば再建する。それまで辛抱してほしい」音ノ眼皇は真剣な顔でそう言い,離宮を破壊した責任を帝国が果たすと約束した。
「ところで皆,空腹ではないか?よければわたしの血と肉を味わってほしい」両手を広げて言う。テーブルには色とりどりの料理が並べられ,かぐわしい香りを漂わせている。「水の主と会えると聞いてな,腕によりをかけた。さ,遠慮は要らない」
それを聞いた寵姫の顔がややほころぶ。パオラは祈りをささげ,早速目の前の料理を口に入れはじめた。卵を麦の生地で包んだ,素朴なもの。けれどもあまりの美味にパオラの目が輝く。「おいしい!これ,陛下が調理されたんですか?」
音ノ眼皇が笑顔でこたえる。「手を入れたのはわたしだが,微々たるものだ。この味は,わが帝国の大地と,ここに暮らす人々の努力があってはじめて成せるもの。北の黒土でも敵うまいと思っているよ」
エッジもうながされるまま食器を手にとる。まずカラカラに乾いた喉をうるおすため,ミルクを口に含んだ。すると,先のパオラと同じような目になる。「おいしい」無意識に口に出してしまっていた。
「それは朝,農地の民から受け取ったものだ」エッジの動作にあわせるように,音ノ眼皇も一口飲み,グラスを眺めながら言う。「彼らは今朝,これをわたしに差し出した。健やかであってほしい,とな。彼らには日々苦労をかけ,未だその恩に報いていないというのに,わたしのことを思ってくれている。わたしはそんな人々の長であることをこれほど誇らしく思ったことはない」
そうしてエッジを見て続けた。「この白き血は,人々の祝福で満たされている。あなた方にも,その思いが伝わると信じているよ」
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