049
かつてこの地がフレイドラントと呼ばれる以前。混沌に秩序をもたらした始祖は,後に皇帝となって人々を治めた。悠久のはてに神々のほとんどは姿を消したが,皇帝は人と交わり,子に転生することで神性を受け継いだ。その百数十余代目にあたるのが今の皇帝・音ノ眼皇ヅェムネルである。圧倒的な武力から神と称される雷神や風神と異なり,真に神たるは皇帝のみである。
帝国の支配者を目の前にした四人の態度はまさに四様であった。手品にひっかかったように喜ぶパオラ,口をきっと結ぶファラン,そんなことは百も承知,と薄く笑みをうかべる寵姫,そして血の気の引いた顔で固まるエッジ。
「陛下,額縁に飾ってある絵と雰囲気が違いますね」無邪気にパオラがたずねた。恐れを知らぬ物言いにエッジの両手がぎこちなく動く。音ノ眼皇は声を出して笑いながら,「わたしが絵よりも醜いと?」と言って自分の頬を指す。「いいえ,お優しい顔をしてらっしゃいます。絵のほうは,なんか怖い」
「そうか。それは嬉しい」帝国の主は満足したように座り直した。事実,帝都のいたる所で皇帝の肖像が掲げられていたが,それは威厳に満ちた王者の風格で,目の前で微笑む姿とはまるで別人であった。エッジたちが気づかなかったのも無理はない。
給仕が食事の用意をするなか,パオラはなおもためらわず問う。「陛下って意外とお若く見えるんですけど,おいくつなんですか?」エッジは心臓が止まる思いだった。やめてくれ。心で祈った。
「この身体になってから,まだ不惑にも届いていないよ」気さくな返事がかえってくる。「ええっ!そうなんですか?じゃあ,わたしより年下なんだ」パオラは大喜びするようにはしゃぐ。こんどは音ノ眼皇が驚いた。「ほう。幼い子供かと思ったが失礼した。あなたはわたしよりもこの地に長じているようだな」
パオラが胸に手をあてて言う。「わたし,耳順うまで雑技団で暮らしていました。パオラといいます。それからずっと,わたしの隣にいるエッジと一緒にいます。これからも」
「エッジ?」音ノ眼皇が首をかしげ,エッジと目を合わせる。思わずエッジは顔をそらそうとし,それが不敬であるのか否かが判断つかず,まるで頭から煙を吹くように固まっている。「エッジとは,北の反乱を鎮め,雷神らと闇の眷属を退けた鬼神エッジのことか?」
「陛下,エッジのこと知っているんですか?」パオラが皆の代わりに聞く。音ノ眼皇がうなずく。「先代の鐘相からそのことは聞き及んでいる。神をも下す武を振るう当代随一の傑物,ただし楔龍が最も手を焼いた暴れん坊だとな」息をのむエッジ。その姿を上から下までながめながら言葉を続ける。「ふむ,わたしにはそんな乱暴者には見えんが。此度の戦で名を聞かぬが今まで何をしていたのだ?」
「はっ…」直接問いかけられたエッジはどもりながら答える。「配…達…人…を…」「ほう。それは重要な仕事だ。運び手なくして国はなりたたん」音ノ眼皇が納得したようにうなずく。「ふむ。はじめに皆を見たときは,たった四人でここまで来ようとは,なんと大胆なと思ったが。いやはや。鬼神がいればどんな護衛よりも安心よな」
そうして左右に目を向ける。自己紹介をしろ,という無言の合図。それを感じとったファランが口を開く。「エッジの親のファランです。親といっても血はつながっていませんが」「ほう。鬼神は保護者を連れているのか。それならば大人しいのも納得だ」
「そっ…」エッジが震える口でつぶやいた。再び目が合う。「そんな…わけ…では…」挙動不審なエッジを気にせず,音ノ眼皇は穏やかに「親の前では誰もがそうなる。わたしもそうだからな」と笑った。
「では」寵姫に顔を向ける。「あなたが水の主か」
寵姫は表情を変えないまま,なつかしそうに「長かったな」とだけ答えた。ただ,その目には,喜び,悲しみ,さまざまな感情が浮かんでいた。まだ芽だった頃から,ずっと慕いつづけ,それでいながら,心を交わせずにいたのだ。その思いが,長かった,という一言に圧縮されているように感じられた。
「水の主ベンテン殿。改めて,わたしが音ノ眼皇ヅェムネルだ。お目にかかれて光栄に思う」そう言って軽く頭を下げる。
すぅっ,と寵姫の顔が変わってゆく。
「陛下は,余を覚えておいででないのか?」
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