045

『あのバカ狐を逃がしただと!』

帝都の皇宮奥深くから雄叫びがあがる。暴竜・ハーマーン=ジェリドの怒りは頂点に達していた。『雷神は何をしていたのだ!』燃える鼻息は荒く,その正面に立つ櫂主セムはちりちりと炙られる。

「監視の目を抜け姿を消した,としか報告はあがっていない。雷神は南へ向かった」『すぐに探し出せ!』暴竜は怒りのあまりその汗さえも燃え出し,寝所さえも破壊しようという勢いだった。だが櫂主はただれた顔で毅然と答える。「すでに海上に船を巡らせて捜索している。だが陸は我らの管轄ではない。戦主に頼むんだな」『おれに逆らうのか!』

暴竜が二股に炎を吐き出した。それは天井まで燃えさかり,櫂主の立つ場所のほかは火の海と化している。

「我らは陸の活動には慣れていないと言っているんだ!」吸い込む空気さえも肺を侵すなか,櫂主は渾身の力で叫んだ。そしてなおも続ける。「我らの港が闇に占拠されたのは,お前の命令で守備が手薄になったからだ。ともすれば我らは補給もできないまま海上で全滅するところだった。我らの戦力は限られている。南の灰の連中と戦うのならなおさら無茶はできん。少しは冷静に物を考えろ」

『おれは冷静だ!』「ならば自分を脅すような真似はよせ。落ち着いて話しあおう」

わずかに沈黙があった。すると,暴竜が鼻を大きく膨らませ,勢いよく吸い込みはじめる。それは暴風となって,部屋を埋め尽くしていた炎があっという間に鼻のなかに消えていった。ようやく火責めから解放された櫂主がたまらず咳込む。

『貴様の考えを聞かせろ。離宮の后を気取るバカ狐の居場所についてもだ』

漠然とした問いが放たれた。櫂主は熱い血の香りを喉に感じながら言葉をつむぐ。「寵姫の居場所については目星がつかん。だが海上にはいないだろう。小舟が一艘消えていることはわかったが,それで遠くまで逃げられるとは思えん。戦主が北に向けている戦力の一部を使って陸上をしらみつぶしに探すほかはない。おそらくな」

暴竜はそれを聞きながらアゴの下を爪でなぞる。『戦況を好転させられるような策はあるか』

その問いに,それまで向けていた櫂主の目がわずかにそらされる。それを見逃さず暴竜が追及した。『いまはどんな愚策でも歓迎する。遠慮するな』

櫂主はなおも喉をなでながらためらっていたが,覚悟を決めたように口を開いた。

「港を闇の勢力から取り戻したとき,雷神が興味深いことを言っていたそうだ。俺の力だ,とな」『それに何の意味がある』「そのとき雷神は遠く離れた船の上にいた。もし港から闇を排したのがやつの力であれば,手の届かない遠くまで攻撃を伝える方法があることになる」





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