018
海からそびえるおびただしい数の大木。それが船の視界を閉ざしている。離宮の様子が把握できないまま,日が暮れようとしていた。予定であれば離宮の街は灰燼に帰している頃である。すると,都督の元に信じられない報告が寄せられた。
「召喚獣の反応が全て消失しました」
その場にいた者からのどよめきがあがる。すぐさま都督は新たな巨人を呼び出すよう告げる。だが間もなく,術師はすでに使い果たしたと伝えられた。沈黙が支配した。開戦とともに,離宮を即座に攻めとるのではなかったのか。とはいえ,このまま進めば全滅する。都督は苦虫をかみつぶしたような顔で,全軍に撤退を伝えるよう命令を下した。
船頭を大樹とは逆の方に向け,帝国が誇る大船団は離宮ひとつ落とすこともなく引き返していった。これで終わるはずもないが,とりあえず,離宮は守られたのだ。
巨人に負けず劣らずの巨体をくねらせ,大海蛇の群れが砂浜を埋め尽くす岩の山を海へとかきこんでいく。その様子を,エッジは宮殿へと続く階段に腰かけながら眺めていた。
「エッジ!」
大きな声とともに背中に衝撃がはしり,エッジの身体に腕が回された。その手を軽くにぎり,エッジは無言でふりむく。
「もう!あいさつは?」頬に顔をすりつけながら,パオラがぐずる。「ただいま。みんな平気だった?」ようやくエッジの口元が緩んだ。
「配達人様」パオラにやや遅れて,神官たちと街の人々も下りてきた。皆,離宮を守った戦士に感謝の尊敬の眼差しを向けている。
「配達人様,わたくしたちの宮を守ってくださり,ありがとうございました。姫様もたいそうお喜びでいらっしゃいます」アレクが潤んだ瞳で深々と頭を下げる。
「今宵は宴とまいりましょう」デクの言葉を皮切りに,歓声があがる。守護者となったエッジは無理矢理立ちあがらされると,歓喜の輪のなかでもみくちゃにされながら宮殿へと押しこまれていった。
真っ赤な顔で勝利の余韻に酔いしれる人々。昨日と同じ日が明日もやってくる,それだけのことが嬉しくて仕方がないのだ。ただ,そのなかにエッジの姿はない。まさに人に酔ったエッジは早々に宴を抜け出し,静まりかえった街の片隅に座りこんで火照った身体を潮風にあてて涼んでいた。
誰かに喜んでもらうのは好きだ。けれども宴のなかで自制を失った人々といるのは苦手だ。大勢の前で褒められるのも。そんなエッジには,やはり誰に縛られるでもなく,各地を自由に行き来できる配達人という仕事が性にあっていると思うのだった。
ふっとかぐわしい香りが鼻をくすぐった。
「寵姫様」
エッジの隣に寵姫が座っていた。「余はヌシを見くびっていたようじゃ」エッジが驚いて聞く。「その姿は。もしかして,また私は」「ヌシはまどろみのなかにおる。じゃが,宮での暮らしでヌシも心を開き始めておるのかもしれぬな」
そうして寵姫はエッジの腕に触れる。思わずエッジの身体がはねた。「ういやつじゃのう」寵姫がくすくすと笑った。「か,からかわないでください」
すっ,と寵姫の顔から笑みが消えた。気分を害してしまったか,とエッジが身構える。「帝国はこれで引き下がるとも思えぬ。どうじゃ。ここに留まって,余を守ってくれぬか」
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