012

「ヌシが眠っているときは余が形を成せるようじゃな」寵姫はデクが真似るような低い声でそう言った。おそらくこちらが本来の喉の調子なのだろう。

「眠っている?私は今,夢を見ているのですか」エッジはそれを言われてようやく,自分の身体がいつもと違うことに気づいた。妙に視野が狭い。まるで水玉に目いっぱい顔を近づけてその中をのぞいているような気分だ。

「そうじゃ。夢は心の檻を放つ。ヌシはこれまで宮の者をあなどっておったのではないか?神の使いを気取った痴れ者たちが己をたばかっておるのだ,とな。神代の出来事など,ヌシにとっては迷信に過ぎんのじゃろう」そう言って寵姫は手を結び,足を組み直す。そこにはあきらめの様子が感じられた。

エッジも否定はしなかった。この宮殿ではエッジの知らない秘密の方法で会話がされていると思っていたからだ。寵姫はこれまでも語りかけていたのだろう。それが聞こえないのでなく,こちらから遮っていただけである,その事実を指摘されてもなお,疑いの心は晴れなかった。一夜の夢が見せた幻かもしれないからだ。

「こうしてお目にかかるまで,寵姫様が本当にいらっしゃるとは思っていませんでした。申し訳ありません」エッジが頭を下げる。ただ,その内にくすぶった思いのあることが寵姫には手にとるようにわかった。「謝らずともよい。ヌシの輩 (ともがら) が変わっておるだけでな,ヌシら人の子は余とは遠く離れてしまった。なんとまあ狭き心よ」「狭い心…」

ふいに寵姫が立ち上がった。エッジが思わず身構える。「何じゃ,臆病なやつじゃな。はたかれるとでも思うたか?」「…思いました」「はっは。正直でよいぞ。ついてまいれ」

そうして衣をひるがえし,エッジも遅れないようついてゆく。神官と同じ,それ以上に深みをもった香りを感じた。



二人は謁見の間の裏にある寝室へ入った。そこには昼間見た木が立っている。だが今は空色の花々が咲き誇り,鮮やかな光を放って部屋を照らしている。

「ヌシの輩が見たのはこれじゃ」そうして細い指をさす。「私も見ましたが」「そうではない。この花を,ヌシの輩も見ておったのじゃ」「え?」

これは夢ならではの光景ではないのか,そう思った。「知るのと知らぬのとでは,見ている世界がこれほど違うものじゃ。ためしに触れてみるがよい」

エッジは寵姫の方に一旦顔を向け,木に視線を戻す。そして枝が垂れ下がるほどの花に覆われた幹に,おずおずと手を伸ばした。と,花がわずかに揺れた瞬間,強い風が吹いた。

流れのやんだことに気づき,目を開けると,月明かりの照らす海,その空にただ一人エッジが浮かんでいた。「!」思わず身を縮める。「はっはっは,しゃがんでどうする」寵姫がからかう声がした。だが姿はない。

落ちる様子がないとはいえ,自分が宙に投げ出されていることにかわりはなく,エッジは丸まったまま必死に目をつぶっていた。「これ,目を開けよ」「む,無理です」「岸に船が集まっておるぞ」

岸に船。そこに何かの意図を感じたエッジは,必死に閉じようとする指をなんとか開き,その震える隙間から前を見た。

昼間のように明かりのともる港。そこに幅の広い船が何十と並んでいる。せわしなく動き回る人の群れ。あれは。

「帝国の船ですか」エッジが顔から両手を下ろしてまじまじと見た。「そうじゃ。この宮を滅ぼすためのな」





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