009
予感がしたアルジはすぐにとびのいたが,わずかに遅かった。両腕の肘から先に黄土色の柱がそびえている。鍾乳洞の柱にも似たその何かは,不注意なアルジにこの世界がどれほど危険かを思い知らせた。バランスがとれず,もつれた足で転げ回るそこからは点々と赤い雫がつづき,雪面に染みを作る。
アルジの両腕をたいらげたその何かは雪の中に姿を隠した。そして食いそびれた本体を求め,移動しているのが音でわかる。手応えのあった相手がそう遠くまでは行けないことをわかっているのだろうか。
なんという合理性か。しかも胞子のような擬餌で獲物をつりだすなんて。
なんてすばらしいのだ。
「すごいぞおまえ!」
アルジは叫んでいた。奇妙なことであるが,アルジを支配したのは恐怖でなく,不思議に満ちあふれた世界に対峙していることへの喜びであった。
不意に首の後ろをすさまじい力で引っ張られるのを感じた。新たな敵か,と思った直後,ぶんぶんと振り回されてからぴたりと宙で止まり,吊るされたまま,聞き慣れた声が背後から聞こえてきた。
「大丈夫ですか」ケライの声に現実へとひきもどされたアルジは,「あまり大丈夫ではありません」,と多少おどけながら言った。襟首が締められて苦しいので,ここへ来る途中にあった洞窟に行くよう指示を出す。しばらく視界がめまぐるしく動き,暗い世界へほうりこまれた。あわててアルジは鞄から悪臭香を取り出して焚くよううながした。これは血のにおいを消すだけでなく,万が一洞窟に先客がいた場合に追い出すことができるのだが,今回の場合は後者の用途では手遅れだ。
ケライはアルジの両腕に手早く包帯を巻き,止血をする。もとがきれいに断たれていただけあって,それほどの出血はなかった。意識もはっきりしている。むしろ冴えわたっている。
「救助を呼びますか」悪臭に自身の鼻と口を布で抑えながらケライは聞いた。
「その前にやつを倒す」
「捕獲ではなくて殺すんですか。調査隊の規約に反するはずですが」ここへ来るまでのあいだにケライは調査隊に関するマニュアルを読んでいた。のだろう。多分。仮に読んでいないとしても,当然ながら調査目的の無駄な殺生は禁止されている。
アルジは大きく息をついた。「私は今興奮で痛みが麻痺しているから正気を保てているが,それは長くはないから聞いてほしい。私はあいつを生きたまま捕獲するのはいまの里の設備では不可能だと考えている。あの巨体の活動を停止させる薬剤の量が確保できないだろうという予測も理由のひとつだが,雪崩でも流されないようにあいつは身体の一部を山の基礎に付着させているだろうという確信がある。仮に活動を停止できたとしても,山ひとつ削り出すだけの設備と人員,時間を用意しなければ引き剥がせない生物なら,数人しかいないこの組織で捕獲という選択肢は現実的ではない。それをふまえると,いまあの個体を倒して体組織を採取し,分析することで,あいつ自身の生態も理解できるし,仮に今後あいつの近縁種が現われても対処しやすくなる。あいつの特殊な動きを把握でき,確実に倒せるのは正気を保てている今の私だけだ。痛みで気を失ったあともあの動きを覚えているかは保証できない」
それに。アルジの本心としては,あいつを倒すことで,両腕を失っても前線で活躍できることを示したかった。救助されたところで,
「擬餌にまんまとつられて腕を食われました」
なんて正直に言おうものなら,知能的にも身体的にも欠陥の烙印をおされ永久に調査に携われなくなると思ったのだ。
「山の基礎にはりついているという説の根拠は何ですか」さすがケライはするどい。だがいまのアルジは冴えている。「根拠は2つある。ひとつは音だ。あいつは私の腕を食ったあと,私自身を追うように地中を進んできた。だがケライに私が吊られ,運ばれ出すとすぐに聞こえなくなった。それはあいつの行動範囲が極めて限定されている可能性を示唆する。こんな過酷な世界で獲物を追尾するような能力を持つ生物が,人間程度の鈍足に追いつけないはずはないからな。もうひとつはあいつが飛ばす胞子状の疑似餌だ。あいつ自身に高い運動能力があるのなら,そんなものを使わなくても獲物を確保できるはずだ」
問答をくりかえしている間に,アルジは自分の身体が冷静さをとりもどして痛覚を復活させてしまうのを恐れた。
「まともに動いていられる時間が少ない,といえば言い訳になるだろう。だが,私は自分の力でどうしてもあいつを仕留めたいんだ」
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