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「どういうことなのか,言える範囲でいいから教えてくれないかしら」

カーテンで目隠しされた治療室。その外で,ショムはケライの話を聞いていた。ボッチらが言うには,ケライの指示で重傷のアルジをオヤブンの私室に連れていき,そこで口論となった。ショムが呼ばれたのはその後のことだ。怪我人を放っておいて口論に及ぶ,しかもその主がふだんは大人しいケライであることが信じられなかった。

ケライは手の甲を擦りながら,うつむいたまま黙っている。「責めているわけじゃないの。ただ,二人に何があったのか知りたくて」「ボッチさんの言ったとおりです」

「ええと,うーん,どうしようかな。少し座って話しましょうか。いま飲み物持ってくるから」だがケライは首を横に振る。ショムは腰に手を当てて溜め息をつく。

「オヤブンさんへの謝罪を優先した理由は言えます?」「わかりません」「ケライさんがそれを伝えたとき,アルジさんは何て言っていましたか」「私が行くなら,行くと」「そうなのね…」

やはりオヤブンへ喧嘩を売ったのはケライのほうなのだ。でも,なぜ。

「あの」自分の爪を触りながらケライが聞く。「アルジさん,治りますか」

「!」ショムはたまらず怒りの表情をあらわにした。だがそれも一瞬だった。ひっぱたきたくなるのをなんとかこらえ,こめかみに指を当てて自身を落ち着かせる。

症状を悪化させたのはあなたでしょう!それを自分の気が済んだからって他人に丸投げしておいて,治りますか?ですって?人の命を何だと思ってるの!

そう頭の中でケライを叱った。改めて現実に行っても何の意味もないことを確認し,深呼吸をする。

「できるだけのことはしています。でも今は何ともいえません。ケライさんが帰ってきてすぐに私のところに連れてこられればよかったんですけど」つらく当たらないよう心がけながら,我慢できずショムはケライの行動に釘を刺す。シンキの全身火傷やケライの全身裂傷を治療したときも大仕事だったが,今回も負けていない。もしくはそれ以上だ。

「すみません」ケライはうつむいたまま詫びる。謝ってどうにかなるわけではないのだが,責めたところでどうなるわけでもないし,それを裁く法の担い手はここにはいない。そしてショムは知らないが,すでに二人はオヤブンによる裁きを受けている。

「アルジさん,最後に何か言ってましたか?」とショムが尋ねた。その言葉で,ケライは目を左右に動かし,記憶をたどった。

「ありがとう,でも,ごめん。と言っていました」

そうか。仮に,万が一の事態になったとしても,最後の言葉がかわせたのなら。いやいや。今そんなことを考えてはいけない。私の力を信じろ。ショムは自分を奮い立たせた。

「謝るならアルジさんが意識を取り戻してから,本人にね」

ケライは頷いた。

ショムは口を抑えてあくびを噛んだ。「私は少し休むから,ケライさんも無理しちゃだめですよ。待っていればアルジさんが早く目覚めるわけじゃないんだから」再びケライは頷いた。


それからどれほどの時間が流れたか。

ケライが廊下の隅に座り込み,顔を伏せていると,差し込む光とともに,人の気配がした。はっとして視線を上げると,アルジがこちらを見ている。あ,起きた。そんなふうにからかう言葉が出てきそうな,穏やかな顔だった。

「おはようございます」反射的に挨拶をした。「アルジさん,もう動いても平気なんですか。ショムさんは重傷と言っていましたが」返事がない。まだ調子がよくないのだろう。

「聞いていたと思いますが,私たちはオヤブンさんから調査隊を解雇されました。ですから,アルジさんが動けるようになったら荷物を整理して出ていかないといけません。アルジさんの部屋で必要なものはありますか。言っておいてもらえれば私がまとめておきます。あと,私の部屋には入らないでください。積んだ資料が崩れたら生き埋めになります」

「数日分の水と食料はショムさんかシンキさんにお願いして確保しておきます。本を持っていくことはできませんが,いくつかまとめた資料があるので,しばらくはそれを基に休める場所を探しましょう。もしくはボッチさんにお願いして,森の宿営地を内緒でお借りできるといいのですが。あとで聞いてみますね」

「アルジさんは虫や魚は食べられますか。里の近辺で食べ物をとるのは難しいでしょう。書庫にあった資料によると,森の東に川があるそうです。そこで何か釣れるかもしれません。もちろん生で食べたらダメですよ」

「アルジさんを助けたときに義足は回収できなかったので,ミミさんにまた作ってもらえるかお願いしてみます。背負って移動するのは無理なので。それまでは仮病でごまかしてください」

「私たちが解雇されたのは私の責任です。ですから,もしアルジさんが里に残りたければ,私がオヤブンさんにお願いして,アルジさんだけでもいられるようにします。だから,」

「ケライ」

「はい」

「今までありがとう」

「はい」

「身体に気をつけて。じゃあね」

「…はい」



「あ,ダメです」

ケライは思わず声を出した。その響きに,空気が変わっているのに気付く。あれは幻影だったのか。それとも。

誰かが寄り添って自分の頭をなでている。首元が暖かい。太いマフラーが巻かれている。ケライが我に返ったことを,相手もわかったようだった。

「ケライ,だいじょうぶ?」シンキだった。二人の様子を見に来たとき,落ち込んだ様子の,といっても座って顔を伏せているのでそう見えただけかもしれないが,ケライを見つけると,その隣に座り,時折うなされるケライが落ち着くまで寄り添っていたのだった。

「大丈夫,とは」「アルジさんがいつ目を覚ましてもいいように,ケライが元気じゃないとね」「アルジさんにはさっき会いました」「え?」「夢かもしれませんが」「そう。アルジさん,何て言ってた?」「今までありがとう,身体に気をつけて,じゃあねって」

「ちょっと」思わず,励ます側のシンキが目を潤ませてしまう。「ひどいよシンキ,それじゃアルジさん死んじゃったみたいじゃない」何度も目を指でぬぐう。「アルジさん死んだんですか?」「いや,だからまだ生きてるって。それなのにケライがアルジさんと最後の挨拶したみたいなこと言うから」「最後の,あいさつ」「だからそれは夢だから。気にしちゃダメだよ。アルジさん応援しよ。ほら,頑張れアルジさんっ」シンキはそう言いながらケライの冷たい手を包み,上下に振る。

「頑張れ,アルジさん」「そうそう」「死んだらダメです」「そう,その調子」「まだ話したいことがあるんです」「うん」「一緒に行きたいところも」「うん…」「一緒に食べたいものもあります」「…」「いろいろ謝らなければいけません」「…」「お礼もしていないです」「…っ」「だから死なないで,アルジさん。お願いです,お願い…」

「ケライ。ごめん。ごめんね」

ふだんは心を見せないケライがどれほどアルジを思っているのか,それを少しでも伝えられていたら。いや,今まで無意識に圧縮していた思いが,ここで解かれたのかもしれない。泉のようにあふれだす純粋な言葉に,シンキはこらえきれず,ケライにかけたマフラーに顔をうずめた。

もしアルジが目を覚ませば,再びその思いはしまいこまれ,やがて埃をかぶることだろう。だが,その時間はきっと長ければ長いほうがいい。その箱が開かれないということは,大切な人が元気に生きているということでもあるのだ。

だが,アルジの怪我を機に,里は誰も知らないうちに,変な方向に動き始めていた。ケライに侮辱されたオヤブン。休む間もない激務にうんざりするショム。治療を手伝うなかで,アルジを独占したいと思い始めたミミ。それら三人に,どこからか形をなした黒い影がささやきはじめた。

怪物は外から来るとは限らない。



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