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コッコに乗ったキセイは雪山を駆け下りてゆく。やがて湿原が見えてきたが,その異常さに目を疑った。
大地は黒く艶めく泥と化し,割れた石や土の破片が沈んでゆく。それは溶けたチョコレートのよう,といえば聞こえはいいが,この世界にそんなものはないし,液状の土なんかとても食べられたものではない。それは波のようにうねりながら,周囲のまだ形を保った場所さえも飲み込み,さらに範囲を広げようとしている。
風とも,地鳴りともつかない低くうなるような音が絶えず鼓膜を揺らし,ひどい不快感である。何が起きているのか。それは二度の地震に遭遇した里の誰もが思っているだろうが,これほどの状況になっているとは想像していなかったはずだ。
「キセイ」誰かの叫ぶ声が聞こえる。目を向けた先にいたのはマッパだ。
「クビワとシッショが針山のキャンプに取り残されている。行けるか」そう言って指差す先は,もはや視界の半分以上が黒く染まっている。キセイは爪を噛んだ。迷っているのだ。その泳ぐ目を見ながら,マッパは言葉を続けた。
「無理だと思ったらすぐ引き返せばいい。ついてこれるところまで,来い。いいな」そう言って駆け出す。
仕方なくキセイもコッコの轡を引き,マッパの後に従う。全力で駆けながらも,マッパは大声で事情を説明する。曰く,これほど早く地面が砕け散るとは思っていなかった。獣車を置き去りにすることはできなかった。こんな状況になってしまったのはシッショにダモスの世話を押しつけた自分の責任だと。
詫びて済むならいいがそういうわけでもない。免罪なんかされても何の救いにもならないのだ。マッパは失敗をした経験が少ないからか,見苦しい言い訳をしているようにしか聞こえない。
なおも地面がえぐられてゆく。先の泥がチョコレートなら,こちらはスプーンですくわれるケーキか。いずれにせよ楽しむには程遠い自体だ。もし針山の麓にたどりつけたとしても,そこから戻ってこられるかどうか。
すると,ふと視線の先に,もぞもぞと動く巨大な毛玉が見えた。
「クビワ!」マッパは感心したような,あきれたような声で笑う。それはすさまじい怪力でダモスを持ち上げ,埋もれるようにえっちらおっちらと運ぶクビワの姿だった。隣には包帯を巻いたシッショの姿がある。ダモスが動けないのなら,動かすまで。単純ながらクビワでなければできない発想だった。
シッショもマッパたちの姿に気づいたのか,折れた槍を持った手を振り,こちらに合図を送る。間もなく合流した四人は,再会の喜びに浸る間もなく,全員でここから生きて帰る方法を考えなければならなかった。
クビワが下ろしたダモスにキセイが駆け寄る。ダモスも親友の登場に大喜びのようだ。キセイが乗れるよう腰を下ろし,それに応じるようにキセイは頭に飛びついて,小さな目をのぞきこんだ。次いで鞄から何か丸い玉を取り出して,毛に覆われた口に押し込む。鎮静剤か何かだろうか。見守る三人に,キセイがシッシッとするように手を払う。あっちへ行け,という合図だ。見張られていてはキセイもダモスも落ち着かないのだろう。マッパたちは心配しながらもキセイを信じ,キャンプへ向けて歩き出した。
いや,それではまずい。そう思い直したのか,キセイはクビワだけを呼んだ。
「もて」
ここに留まっていては間に合わないかもしれない。それを恐れたのか,キセイはクビワにダモスごと運んでもらいながら手当てを続けることにした。シッショの仲介で,再びクビワが巨体の腹に入り,よいしょと持ち上げる。
前が見えないのでシッショがイチニ,イチニと呼びかけながら,二人は歩んでゆく。まあイチニというのは便宜上のもので実際にはアンドゥかもしれないしワヒドゥイスニンかもしれない。それはどうでもよく,シッショの掛け声はクビワを励ます役割も持っているようだ。奈落に落ちるかもしれないこの状況で,それは何ともほほえましい光景である。キセイの世話が効いているのか,ダモスもさほど暴れず,落ち着いている。
「もっと速く運べないのか」辛辣な言葉がマッパから出た。「無茶言わないでよ」というシッショの言葉に,「できる」とのクビワの返事。
するとそれまで歩くような速度だったものが駆け足になり,さらに速度を上げてゆく。キセイは振り落とされないよう,ダモスの背中にしがみつくような姿勢になる。
これなら初めからクビワに全力で運ばせていればよかったのではないか,とも思えるが,さすがにクビワもきつそうだ。それにマッパの注文には理由があった。
「シッショ,絶対に後ろを振り向くなよ」「え?」「いいから,絶対振り向くな。振り向いたらもう片方の目を潰す」「…わかったよ」
シッショの励ます掛け声はなおも続き,順調に一行はキャンプへ向かっているように見えた。だが,皆とは逆向きにしがみつくキセイだけがマッパの意図をとらえていた。黒い泥のなかから見上げるほど巨大な鎌首を持ちあげ,全てを飲み込みながら自分たちに迫る得体の知れない何かの姿を。
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