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シッショの顔に浮かぶ疲労の色も濃くなってきた。ケライが受けている苦痛はこの程度では済まないだろう。アルジの症状が悪化していないのは幸いだが。そんなとき,ボッチが「おい」とシッショに声をかけ,一枚の紙を見せた。
そこには何か虫の卵塊のようなスケッチと,殴り書きのようで日付の他は読めない文字が書かれている。そしてその紙には,あるはずの透かしがなかった。
「これだ!」いきなりシッショが叫んだので,ボッチは飛び上がった。シッショは興奮し,その顔も赤みを帯びてゆく。水を吸った植物がみるみる活力を取り戻すように,その様子はボッチにも伝わった。
「ボッチ,この絵か,もしくは書かれていることに見覚えある?」「文字は読めないが,この卵は見覚えがある。森で似たものを見つけた」「それって,アルジが裂掌獣のエサだって言ってたもの?」「そうかもしれん。どこで写したものか,本人に直接聞く必要があるな」「うーん,書かれてある字は読めない?」「無理だ。俺は書道家じゃないからな」
それからシッショだけがショムを連れ,懲罰房に向かった。重い金属扉に手をかけるショムの顔が険しくなる。
「落ちつかせますから,合図があるまでそこで待っていてください」その言葉にシッショがうなずく。それに合わせるようにショムもうなずくと,扉を開け,照明を持って中へ入って行った。
低くうなる声。ガチャガチャと鳴る金属音。ショムが何かを必死に叫ぶ声がする。ノズルを何かが流れる音。吠える声は一層大きくなる。ショムが獣を人に戻すために戦っているのだ。
本来スパイの疑いがある者に対しては,日々の尋問と,それ以上の苦痛を与えることになる。シッショは今でも最初の直感を信じている。ケライは無実である。ゆえに,自分が選んだケライへの仕打ちは適切であったと思っている。
どれほどの時間がたったか。やがてぼそぼそと人の声が聞こえる。「シッショさん」自分を呼ぶショムの声があった。その声に,シッショもひんやりした部屋へ入った。
明かりに照らされたケライは,一見するとさほどダメージを受けていないように見えた。ショムにきれいに拭かれた顔は,汗で髪がはりついているものの,少し痩せたかと思う程度だ。だが,何日も開きっぱなしにされた顎を閉じることができず,痙攣する口元をショムがこまめにぬぐう。また時折ぎょろりと眼球が動き,なんとか正常を保っているのだとわかった。
「しゃべれますか?」そうショムに問う。「ろれつが回らないと思うので,…」返事が濁る。
「ケライ,僕の言葉が聞こえる?聞こえたら瞬きを二回して」
ケライは少しの時間を置いて,ぱちぱちと瞬きを二回した。よかった。意識はあるようだ。そこで,問題の紙を見せる。
「この紙はケライが書いたの?もしそうなら,瞬きを二回して」ぱちぱち。「これをどこで書いたか覚えてる?」ぱちぱち。
それから瞬きによる質疑を経て得られたのは,ケライがそれを書庫で書き,元の本を借りて部屋でも作業したということだった。確証はないが,その作業で書き損じたか,不要になったものを裏紙として使ったのだろう。
幸運だった。借りたのならば貸し出し記録がある。この紙に何が書かれているかは読めないが,書いた日付はわかる。この疑惑の根源は書庫にある。
「ケライ,よく聞いて」
ケライが力をふりしぼってうなずく。
「もう一日,ケライを拘束する。それから解放する」
ケライが怯えた目をし,首を横に大きく振った。「いあえう」
当然だ。せっかく人間に戻れたのに,再び閉じこめられるとは。シッショもこうなるとわかっていた。だからボッチがケライの字を読めないか何度も頼んだのだ。だがやらなければならない。シッショはショムを見てうなずく。それを合図にショムは手早く口枷をはめ,「いあ,いあ」とうめき声をあげながら首を振って抵抗するケライに目隠しをした。そのまま無言で二人は部屋を出て,ケライの悲痛にも聞こえる声を重い金属扉で塞いだ。
「ここまでやる必要があるんですか」
そう言ってショムは目ににじんだ涙をぬぐう。形は違えど,自分がかつてケライをこんな立場に追いやろうとした,それに近い現実を目の当たりにしてショックを隠しきれないのだ。だがシッショは小さな声で吐き捨てるように言った。
「こんなもの,よそからすれば,なんてヌルいんだって言われるよ」
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