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クモの巣が一面に張られたような埃くさい部屋は,中央が明るく照らしだされている。どこからか光を取り入れているのだろうか。壁には,本と,何かが描かれた設計図のようなもの。マッパなら見慣れているであろう景色である。ただ,壁の一部は蝶の羽でも張りつけられたかのように虹色の輝きを放っている。無機質な部屋とは対照的な模様の美しさに,引き込まれてしまいそうだ。
すると,マッパが手でアルジを制し,目で合図した。「見ろ」
部屋の中央に置かれた机。その一部が黒く染まっている。そこにもたれかかる,
人。
!!
アルジは声を上げそうになった。北の大陸に来て以来,調査隊以外の人間に会ったことはない。ついに自分たち以外の人間に遭遇したのだ。
残念ながらそれは,つい最近,人としての機能を失ったようだ。そばに倒れた杯があり,シミを作っている。毒をあおったのだろうか。だが,なぜ。
ふいにアルジは何かに気づいた。「マッパさん,あれ」
そう言ってマッパの腕を下げ,自分の考えを確かめるために亡骸に歩み寄る。その背中の模様には見覚えがあったのだ。
「あの背中,後発隊の」
急に首の後ろを引かれ,後方に叩きつけられた。何をする。そう抗議しようと顔を上げた瞬間。
アルジとマッパの間は白い膜で隔てられていた。膜,おそらく糸で作られた繭のようなもの,その向こうにマッパの姿が影のように浮かぶ。
呼びかけようとした。途端に,部屋全体が揺れる。内臓まで揺さぶられるような苦痛に,アルジは思わず腕で耳を塞ごうとした。だができない。腕の長さが足りないのだ。吐き気。立っていられず膝からくずれ落ち,嘔吐する。床に散った粉がはねている。地震ではない。これは。
音だ。
部屋全体に鼓膜を灼きつぶすような轟音が鳴っている。極彩色の壁,そこから吠えるような音がうなり,反響し,頭を揺らし,身体の自由を奪う。それを防げないアルジは必死に耐えるしかない。それだけじゃない。何かが割れ,引きずられ,弾けるような音が聞こえてくる。
膜のなかで何かがはねまわっている。球のような形だった膜は,内側から物に突かれ,こんぺい糖のように姿を変える。干したシーツの裏側から誰かが押しているように。ただそれが穿たれることはない。すんなりと元の形を取り戻す。ただ,反発を得た破片はさらなる力で反対側の膜にぶつかり,何度もはね返されながら,ぐんぐんその速度を上げてゆく。
まずい。早くしなくては。アルジは焦った。やがて無数の破片が弾丸のような速度で飛びかい,中にあった亡骸はおろか,マッパも粉々になってしまう。
アルジは鼻血を出すほどの激痛のなか,膜に向かってフックを射出し,突き破ろうとした。無駄だ。防がれる。伸ばした鉄球をぶつける。びくともしない。それは内側においても同じようだ。アルジの目の前で,時おり大きな突起ができるが効果はない。マッパも同じように破ろうと試みているのだ。だがマッパほどの力をもってしても,膜には少しの傷も残らない。
自分たちの戦い方がここへ来て裏目に出た。北の大陸のモンスターは,その多くが強靭な甲殻や潤沢な毛に覆われ,剣では断ち切れない。シッショの尖槍でさえ,そのままでは裂掌獣の身体に届かないのだ。ゆえに,クビワの籠手や,アルジの鉄球など,調査隊は敵を砕く方法を研ぎ澄ませてきた。だが,この膜はそうした攻撃に対し圧倒的な耐性を持っている。まるで隊員の攻撃特性を知っているかのような。
目が眩む。考えられない。マッパさん。自分があのとき足を踏み出さなければ。アルジは後悔した。嫌だ。また,自分の仲間が,目の前で,その形を失っていくのが。
車輪に飲み込まれ,叫びとともに肉の中身が押しだされる様子。火薬が炸裂し,人だったものの破片があたり一帯に飛び散る様子。木をべっとりと濡らす,血と髄。
やめろ!
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