077
誰よりも自分の生を愛し,明日が来ることを祈る人がいる一方で,誰よりも自分の生を憎み,明日が来ないことを願う者もいる。そして皮肉なことに,たいてい後者よりも前者のほうが死への距離は短い。
ただし,距離の短さと,実際にそこへ着くかどうかは別だ。
爆音とともに,アルジの身体は跳ね上がった。その眼下にあったのは,巨大なクチバシを持つ鳥だった。巨体を支える太い足と爪。その羽根は退化し,胴におさまっている。空中で体勢をたて直したアルジは,着地した直後,二人に撤退するよう叫んだ。
煙幕,悪臭玉,爆竹。あらゆる道具で攪乱し,湿地を駆けた。カチカチとクチバシを鳴らしながら,なおも背後から草をかきわけ追ってくる音が聞こえる。始めからわかっていた。雷掌獣の縄張りに侵入してきたこいつには,全ての場所が餌場なのだ。直感が告げる。おそらく,こいつが湿地から生命の営みを絶やした元凶なのだろう。
アルジは濡れずに残っていた笛花火を放った。それは甲高い音とともにあさっての方向に飛んでゆく。やがて,その音に引かれたのか,地面を刺す音も離れていくのがわかった。
なんとか三人は湿地を抜け,なおも湿原を全力で走り,キャンプまで引き返していた。アルジとシッショはぜえぜえと息を荒げていたが,クビワは顔色ひとつ変えず,「なんでにげた?」と聞いた。果たしてクビワならやつと戦って勝てただろうか。わからない。
わからない,という理由はただひとつで,あの獣は生物のネジが外れていると感じたからだ。仮にアルジと雷掌獣のうち,勝ったほうから横取りすることを考えていたのなら,少なくともあの鳥は雷掌獣よりも圧倒的に強い。まるで,雷掌獣があの鳥によって縄張りの隅に追いつめられていたのではないかと思うほどに。それほどの強さなら,クビワでさえも無傷では済まないだろう。マッパが本気を出さないかぎり,クビワは里で最強,いや,辺境最強の戦士なのだ。こんなところで失うわけにはいかない。
何より,あいつがこちらを追いかけながらカチカチとクチバシを鳴らすのが不気味だった。やつは自分の姿を隠す気がない。風景に紛れて効率よく獲物を狩るという,捕食者の基本を持たないのだ。それでもやつがあの巨体を維持して生きのびているということは,何らかの恐るべき武器を持っているはずである。
あのとき,真上に飛んだ自分を見た,あの無垢でつぶらな,全てを見通すような瞳。あいつは何も考えていない。その捉えどころのなさがかえって恐ろしく,あの目を思い出すたびに寒気がはしった。
撤退して正解だった。そうアルジは確信している。ただ,雷掌獣を倒した証拠を何ひとつ持っていないのは失態だ。鉄球にわずかに体液がこびりついているが,泥水に汚染されているため何の価値もない。とはいえ,いくつかの情報を得ることはできた。雷掌獣も裂掌獣と同じく拳で特殊な攻撃を行っていることが確かめられたのだ。体毛を持たないのは表面をなめらかな表皮で覆い,自身が感電するのを防ぐためだろう。また,シッショが当初雷撃の音を報告しなかったのは,水音と聞き間違えたからかもしれない。クビワはアルジよりもはるかに速く,常に水を巻き上げていたと考えられるからだ。
だが,すべては推測でしかない。素材を持ち帰り,分析できなければ何の意味もないのだ。アルジは結局,里の貴重な資源を無為に消費しただけである。オヤブンから言われるであろう文句が容易に想像でき,里に帰りたくなかった。
「ところで」キャンプで服を干しながら情報を整理するなかで,シッショが疑問を投げかけた。「アルジの足,どうしたの?」クビワも饅頭を頬張りながらうなずく。「あぶび,ぶびばぼびぼばばぶぼんば」「アルジはクビワよりも高く飛んだって」シッショの翻訳にクビワも笑顔で頷く。
自身の隣に並べた義足を見て,アルジは思った。そうだ。あのとき,自分は死んだはずだった。けれどもそのとき,いくつかの考え,言葉,顔が浮かび,身体が勝手に反応した。だから,服が裂けるだけで済んだ。そして,生への直感があいつからの撤退を叫ばせた。
アルジの命をつないだもの。それは裂掌獣ザエルの拳をもとに,ミミが義足に取り入れた噴射機構だった。かかとの軸板をずらして踏むと,ザエルの拳と同様の爆発的な反応が起きる。今回はその勢いが強く,地面に向けられたためにアルジの身体がロケットのように打ちあげられたのだ。今は垂直方向,かつ一度しか噴射できないが,いずれは水平方向に,そして複数回使用できるようにし,誰にも負けない機動性を持たせようとのことだった。どこまでも走れる義足。それをミミは本当に実現しようと考えている。アルジのために。
アルジのために。
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