015

天国と地獄を足すと0になる。オヤブンが発した言葉はアルジにそのことを実感させるものであった。

「キミにはボッチくんの下で農地に適した土地の調査補助に携わってもらいたい」

これまでの調査隊は,戦闘能力に優れるクビワとシッショによる未開探索と,研究の実績があるミミを中心にした安全な土地での調査に分かれて行われていた。そこでオヤブンは,学位をもつケライをクビワとシッショのサポートに据え,アルジを危険な場所でなくても活動できるように配慮したのだ。だがそれはアルジにとって未知の探究を奪うことでもあった。当然ながらアルジは抗議する。自分は両腕がなくてもモンスターを討伐できるほどの実力がある。だが報告なしに身勝手な行動をするのはチームの結束を崩す暴挙である。だが通信設備の不十分なこの状況で里と現場で迅速な報告と指示をしあうのは困難である。だが安全が最優先だから,謎の多い新種に遭遇したらまず帰還し報告するのが第一である。だがそれは希少な個体を見失う可能性を高める。

だがだがだが。オヤブンに説得しても無駄である,とまではいかないが,実績を積まないかぎりどんな抗議もオヤブンにとってはただのノイズでしかない。ここで文句をいうよりは,ボッチ団に属したうえでどう立ち回るべきかを考えるのが有効である。オヤブンの決定を受け入れたアルジは,部屋をあとにした途端に力が抜けてしまった。

ラウンジに戻ると,ケライが本に囲まれ,何かを書き留めていた。「ここ座っていい?」「どうぞ」「少し話がしたい」「これを写し終えるまで待ってください」

ケライは手慣れた様子で視線を動かしながらペンをはしらせてゆく。やがてペンが止まり,目を左右に動かして内容に誤りがないのを確認すると,ひと区切りついたのか顔を上げた。「何ですか」

アルジは話し出そうとしてふいにためらった。このまま切り出すと愚痴になるからだ。「オヤブンから私たちが今後どう調査に関わるかを聞いたよ」「はい」「私は治療が済むまでミミさんのところでお世話になるから」「はい」「ケライはシッショさんのところで調査に携わってもらいたい」「わかりました」そう言って再びケライは手を動かしはじめる。

それを見たアルジは立ち上がると,「じゃあ今からシッショさんのところへ挨拶してくるから」と言って立ち去ろうとした。だがケライはペンをはしらせながら「アルジさん。」と呼び止めた。

「なに」「嘘はやめましょう」

それはケライにとってただ事実を述べただけかもしれない。事実,治療が済むまで,とは言ったが,治療が済んでもアルジの所属はボッチ団のままだろう。仮にこの地での栽培が軌道にのって必要な人員が減ったとしても,アルジは最後の一人になるまで作物の面倒をみることになるだろう。そんな未来が透けてみえた。

作物の世話や家畜の世話に発見がないとか,知的好奇心を揺さぶられないとか,そういうことではない。だがアルジが求めるのは「こんなやりがいのある仕事はない」と自分を納得させながら自分の思いどおりにいかない植物や動物や天気の機嫌をうかがいつつ言葉によらない対話や協調をくりかえし生き物を育てていくことではなかった。獲物を全力で殺しにくる捕食者の動き,その身体がもつ圧倒的な合理性,ひりひりする命のやりとりのなかで,育てることとは異なる方面でしか得られない命の神秘,奇跡,可能性,そういったまだ誰も知らないものを知りたいという単純で空虚で無価値な欲求に自分を埋没させ,好奇心のおもむくままにつっぱしり自身の存在さえも気体のように霧散する瞬間を味わいたかったのだ。極端な言い方をすれば,知れるなら死ねる,という奇怪で短絡的で無責任な幻想ともいえる。

これまでのアルジにはそれを実行にうつすだけの自信が自分に備わっていなかった。だがそれはケライの存在とこの北の大陸という世界に出会ったことで変わった。自分の選択に対し常にケライが「大丈夫ですよ」と言っている『ような』錯覚を持つことで,未知への知りたさとそれに伴う危険への不安を払拭できるようになったのだ。それがいつまで続くかはまだわからないが,ケライの存在そのものが持たせたアルジ自身への自信ははかりしれない活力を今のアルジに与えている。自身への自信てシャレじゃないよ。

それがケライがケライのままでいるだけでアルジが守られているということの詳細な説明だった。まあかえって複雑になっただけだが,それをアルジは怒涛の勢いでケライに話した。ケライはそれを全て聞き,「そうですか」とだけ言った。ケライは落ち着いた人物である。仮にシンキやミミにこんな気色悪いことを言おうものなら距離を置かれ,というか置かれるだけで済めばいいが,どこかでのたれ死んだほうが喜ばれることになったであろう。

全てを晒したアルジはラウンジを出て里の前にある広場へと向かった。なおアルジはこの後,育てることの楽しさを知り,認識を改めることになる。



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