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「ボッチ,起きて」
その声にボッチが目を覚ますと,目の前にシンキの顔があった。驚いて飛びのくが,いつものようなからかう様子ではないし,体内時計はまだ朝を告げてはいない。
わずかに記憶を呼び戻す。幸い,夕食を経て夜になっても,敵の襲撃はなかった。寒さがこたえるので,四人はテントに入って眠りについた。ペット達はテントに入れないので,かわりに大きな毛皮をかぶった。
キセイを真ん中に,ミミとシンキが川の形で横になって眠った。恥ずかしがったボッチだけが,一人そこから距離を置き,三人に背を向けて寝た。だが今テントの中にいるのはボッチだけだ。
「ちょっと来て」そう言ってシンキはテントの外に頭を引っこめた。良い知らせでないことは明らかだ。
崖際にミミと,その服にしがみつくキセイの姿があった。ボッチがやってくるのに気づき,顔を向ける。二人とも心配そうだ。
「何があった」その言葉にミミは「あの,あれを」と言って下を指差す。
「なんだこりゃ」
それは夜の暗い河,その中州に自分たちが取り残されてしまったようであった。この地に真の夜闇がないのは幸いであるが,崖下が見えないほどの暗闇に覆われている。霧か何かは判然としないが,それがわずかな風にたゆたう他は,何も見通せない。あの緑の低地,美味なる肉も。
「これ,何だろね」そう言って崖下に手をのばそうとするシンキに「触るな!」と思わずボッチが大声を出してしまった。びくっとシンキの身体がこわばる。ボッチはすぐ「すまん,大きな声出して」と謝ったが,何かの歯車がずれたのか,シンキは「ごめんね」とだけ言ってテントに戻ってしまった。「ちょっと見てきますね」と言ってミミは腰にへばりつくキセイを伴ってテントの中に入っていく。ボッチは煮え切らない気持ちで崖際に座りこんだ。
シンキの癒えない心の傷。それもあるだろう。以前のように身体が動かせない焦り。それもあるだろう。それで皆に迷惑をかけている。それもあるだろう。でも皆のことを考えるとじっとしていられない。いや,ボッチはシンキを足手まといだと思ったことはない。ボッチはシンキがそばにいるだけで,どんな困難でも突破できるような自信がわいてくる。ただ,シンキは自分に対しときどき何か怯えるような,不思議な目をする。ボッチはシンキを傷つけることなんて絶対しない。だから怯える必要なんてない。いまの大声だって傷つけるつもりで言ったんじゃない。それはシンキだってわかっているはずだ。だが,何か,…。
いま,この状況を相談できる相手はいない。ゆえに,この霧の正体を自力で明らかにしなければならない。自分はミミやショムのような知識はない。アルジ。ふいにあの無鉄砲なやつが脳裏をよぎった。顔を振って崖下を見る。
霧はこれ以上のぼってくる様子はない。気まぐれな強風が吹いてくることがなければ,ここは安全だ。おそらく。だがいつ晴れるのか。このままであれば,いずれ道を切り開かなければならない。とはいえここから見るだけでも真っ暗なのだ。方角がつかめなければ,下りたところで川にたどり着くだけでも一苦労だし,船で向こう岸に到達することさえできないだろう。
こんなときもボッチはアルジとは対照的である。アルジならとりあえず命綱をつけて探索に向かうだろう。だがボッチは霧が晴れるのを待つことにした。昨日までは何もなかったのだ。これも一時的なものだろう。そうであってほしい。ただ,もしこれがずっと続くようなら。
今テントを開ければシンキを怯えさせることになるだろう。ボッチは森へ向かう内容を記した手紙をテントの下から差し入れ,川で隔てられたこちらの森がどうなっているのか,足を踏み入れることにした。
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