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本章でもストーリーに進展はない。時間を進めたい読者は飛ばしてほしい。

アルジは嘘をついている。その言葉で食事の手は完全に止まった。「食べないと,午後もちませんよ」その原因を作ったケライは心ない言葉をかけるが,さらにその根本の原因を作ったのはアルジ自身だ。自分の口に無理矢理押し込み,水で胃に捨てると,行こう,と書庫へ誘った。


「あれ」作業が再開されて間もなく,アルジは書庫で身体の不調をうったえた。「どうしましたか」「なんだろう,なんか,気分が乗らない」

大して動いてもいないのに,その顔は青ざめ,汗でびっしょり濡れている。その様子を異常に思ったケライはショムを呼ぼうとした。だが,先の施設から漂う殺伐とした雰囲気にケライを送るのは危険だ。ゆえに祈るような声でケライに書庫に留まってくれるよう頼んだ。

席につき,汗をぬぐってもらいながらも,その息は荒い。ただ,布越しにケライの手を感じるだけで,アルジの気分は随分と楽になる。やがて目を閉じ,ケライの肩にもたれかかると,その温もりにどこか懐かしさをおぼえた。


「私は臆病だ」ふいにアルジがつぶやいた。

「そうですか」「ずっと逃げつづけていたんだ,昔から」「何からですか」「嫌なものから」

嫌なもの。それは人を死に追いやったり,仲間の死を見ることだった。怖くて仕方なかった。できなかった。だから戦わずに逃げた。それは今でも何かあるたびに逃げる,アルジの悪癖として残っている。そして過去からも逃げ,そこに蓋をした。

記憶の釜から忌まわしい過去が絶えず蒸気のように吹きあがる。それを必死に押さえこむなかで,いつのまにか自身の見たものと伝聞が曖昧になっていた。東に出発して西から帰ってくるようなことが起きた。歪んでしまった。嘘になっていた。忘れたから歪んだのではない。意図せず思い出してしまう,そのたびに,記憶の内容が少しずつ形を変え,やがてアルジ自身も気づかない偽の思い出になってしまったのだ。

アルジは忘れてなどいなかった。必死に忘れようと葛藤するなかで,過去を歪め,思い出を受け入れられるように作り変えていたのである。むしろ,思い出すことさえ恐ろしくなり,血の嵐を忘れ,封印しつづけてきたのなら,その記憶は新鮮なまま保たれていただろう。そして,何かのきっかけに,その新鮮な血のしぶき,飛び散る臓物,骨の砕ける音,断末魔の叫び,憎悪,嘲り,腐敗,それらが起きたときのまま目の前に展開されたなら,アルジは狂乱の渦に飲まれ,二度と帰ってこれなかったはずだ。

アルジは日記をつけない。日記は真実を保証するものではない。だが,過去を記憶のみに留めることで,どこまでが事実でどこまでが嘘なのか,永久にわからなくなってしまった。ケライが苦労して聞きとった記録も,誤りがあるとわかれば価値はない。アルジは血の嵐で起きたことを伝えようとした。けれども自分の弱さが全ての過去を台無しにした。多くの者が倒れゆくなか戦いもせず,身を隠し,ひたすら泥棒のように生き抜いた卑劣な自分が。投降した南でさえも居場所がなく,後発隊に志願することでそこからも逃げようとした愚かな自分が。

裏切り者!

そうだ。裏切り者だ。自分だけ生きのびた臆病者なのだ。生きたい,それだけのために,生き証人としての資格も失ってしまった。

あのとき死んでいたなら。そうすれば北の大陸は未踏の地として,新たな時代が幕を開けるはずだったのだ。謎と発見に満ちた,美しい場所として。

自分はこの世界でも邪魔者なのだ。


話を聞き終えたケライは,「本当にしょうがない人ですね」とあきれるように言った。同時に,自分が関わっていながら,すぐにその嘘に気づけなかったことを反省した。アルジと付き合っていると,自分の物の見方が歪む,と文句も言った。ただ不幸中の幸いだったのは,これが世に知られる前に明らかになったことである。

ケライはアルジの頭に顔を埋め,片手を添えると,「私は不誠実な人が嫌いです」と頭に話しかけた。「知ってる」そこから離れた口が返事をする。「皆さんに謝りましょう」「わかった」


それから互いに話すこともなく,静寂な時間が流れた。それまで背骨に通されていた針金が引き抜かれるように,ゆっくりと痛みが消えていった。自然な気持ちで身体の力が抜け,二人がまざりあって溶けていくような,どこまでも心地良い温もりと柔らかさに包まれていた。


「昨日流してないからにおうかも」「わかってるなら離れてください」「ごめん。でももう少し,こうしていたい」



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