088

閉じられた世界にいると,悪魔のささやく声が聞こえてくる。

その日も治療室の前でケライは長椅子に腰かけ,何をすることもなく時間を過ごしていた。この椅子は,地べたに座りこんだままなのを可哀想に感じたシンキが用意したものだ。だがシンキが助けられるのもこの程度が限界である。里の隊員でなくなったケライには,自室と鍵のかかっていない場所,すなわちラウンジとここ程度しか居場所が残されていないのだ。好きな本も読むことができず,自分が以前まとめたメモを読み直し,気付いたところに筆を入れる程度である。顔には出さないが,とても寂しい思いをしているだろう。

そのとき,治療室からミミが出てきて,珍しくケライの横に座った。普段は疲れはててそのまま自室に向かうことがほとんどなのだが。何か追いつめられたような表情をしているが,資料に目を落とするケライにその顔は映っていない。

「ケライさん」とミミは呼びかけた。「はい」と返事がかえってくる。

「アルジさんだけでもこの里に残ってもらえるよう,オヤブンさんに謝ってくれませんか」

その言葉を発した瞬間,ミミは,このうえない残酷な計画が実行にうつされたのを理解した。全身をおぞましい寒気がはしった。言ってしまった。だがもう止まれない。帰れない。意思とは関係なしに,口が言うのに任せた。

「オヤブンさんとショムさんに相談しました。ケライさんが謝ってくれれば,アルジさんだけは里においてこれからも治療が行えるそうです。それに,今までのように責めることもしないと」

その言葉にケライが顔を上げ,ミミを見る。「本当ですか」

生贄が餌に食いついたのを感じた。

「ええ。嘘じゃありません」

嘘ではない。アルジを責めることはしない。なぜなら。

「アルジさんの義足や義手を作ったり,その他の面倒も私なら見ることができます。それに,アルジさんは,…私だけに悩みを打ち明けてくれます」それも間違いではない。

さらに,ミミはなかば確信に満ちた問いを発した。「アルジさんは,ケライさんに悩みを相談したことがありますか」ない。あるはずがない。

ケライは正面に顔を戻し,うつむいて記憶をたどる。「ありません,たぶん」

「ケライさん。アルジさんのこれからのこと,私に任せてくれませんか。私,必ずアルジさんを助けます。約束します」

ミミの言葉を受け,ケライは考えた。確かに自分はアルジの心が傷ついてもそれを癒すことはできないし,失われた手足の代わりになることもできない。自分が謝ることで,それらを解決できるなら。


ミミは動悸が治まらなかった。鼓動がケライに聞こえるのではないかと思うほどだった。

自分の言葉が,単にケライをアルジから引き離すための小賢しい策だったら,どれほど気が楽だっただろう。寒さではない,自身のあまりの残酷さに震える手を必死に押さえながら,ミミはケライの言葉を待った。


それはオヤブンとショムに,ミミも加わった恐ろしい計画だった。

誰が言い出したわけでもない。どこからか自然にたちあがり,やがて形をなしたものだった。まるで悪魔がケライを生贄に求め,見えない手で三人を操っているようだった。

心身の限界を感じたショムは,オヤブンの身の回りの世話をケライに任せようとした。オヤブンはケライに負わされた屈辱を晴らそうとした。そしてミミはアルジを独り占めしたかった。

それはたった一つの方法でなしとげられる。

アルジを人質とすることで,ケライから人間の身分を剥奪し,そしてオヤブンの玩具に堕とすのだ。

そうだ。これで誰ひとり里から失われることなく,問題は解決する。竜人族が悠久の昔から培ってきた,人間を苦しめる方法は星の数ほどある。それらを好きなだけ駆使し,憎いケライの心身をオヤブンがどれほど辱め,痛めつけようと,ケライはアルジを守ろうと耐えるだろう。禍々しい器具の数々をミミが作り,オヤブンがいたぶり,その命が尽きないようショムが保つ。気の遠くなるほどの絶え間ない恥辱と苦痛のなかにケライは沈んでゆく。それを想像すると,オヤブンの心に秘められていた竜人の血が騒ぎ出すようだった。

初めてそれがミミの心に入り込んだとき,身体が半分に割れるような気がした。だが,時間が経つにつれ,どす黒く粘ついた糸が半身から伸び,残りの半身を覆いつくしていった。

ミミはその計画を受け入れた。はじめにミミがケライに交渉する。ケライはそれを受け入れ,オヤブンのもとへ向かうだろう。そこで新たな交渉がなされる。アルジを守るために,ケライはオヤブンの提案を受け入れ,そして,地獄という言葉さえも生温い業の螺旋へと自ら足を踏み入れるのだ。

晴れてショムは解放され,オヤブンは満足し,ミミは何も知らないアルジと穏やかな日々を過ごす。ケライ一人がその柔らかく無垢な身体を生贄として捧げれば,里は平和を取り戻すのだ。

それがかりそめのものであろうがどうでもいい。私たちは疲れたのだ。この出口の見えない戦いに。私たちは傷つきすぎた。まるで私たちは囚人ではないか。脱走しようものなら手痛い罰を受け,元に戻される。逃げ場などない。だが私たちは何の罪を負ったというのだ。なぜこれほど苦しまなければならないのだ。


私たちはお前たちを恨む。血の嵐を引き起こしておきながら,その尻ぬぐいもせず,厄介事を押しつけのうのうと生きるお前たちを。この憎しみが癒えることは決してない。見ているがよい。お前たちが目を閉じたこの北の大陸で何が起きるのかを。自らの過ちを見ないことにし,忘れようとしたこの地で何が起きるのかを。それに気づいたときには手遅れだ。そのときこそ,お前たちが苦しむ番だ。


ミミは回答を待った。何も知らないケライは,細い指をあご先に当て,考えている。頷け。違う。首を横に振るんだ。はいと言え。違う。いやだとさえ言ってくれれば。



「わかりました」

そうケライは答えた。



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