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この章ではストーリーに進展はない。翌日に時間を進めたい読者は飛ばしてほしい。

それから治療室に運ばれたアルジはしばらく怪我の痛みに苦しんだが,やがてそれが和らいだのか,ようやく眠りにつくことができた。治療室の外ではケライが座っている。まるで時間が巻き戻されたようだ。ケライの顔に光が差し,治療室からミミが顔を出した。中からケライを手まねきする。

ケライが入るのは初めてだ。ベッドの上ではアルジが身体を横に曲げて眠っている。

「背中をケガしているので,あおむけに寝られないんです」ミミが小声でささやく。「さっき背中の傷口が開いたんですか」ケライは普段のような大きさで声を発したため,ミミは慌てた。「アルジさんを起こさないよう,小さい声でしゃべりましょうね」「はい」

処置が済んだからだろうか,ミミは室内の明かりを消した。「私は今から寝ます。もしアルジさんが苦しそうだったら,身体を優しくなでてあげてください。たぶん,ケライさんがしてあげるのが一番落ち着くから」「はい」「あと,もし呼び鈴が鳴ったら,隣室のショムさんをすぐに呼んでください」「はい」ショムはいつでも緊急事態に対処できるよう準備しているのか。これでは怪我人の対処に参って当然だ。

「あ,言い忘れた」部屋を出る前に,思い出したようにミミが振り返った。「ケライさんも疲れたら休んでくださいね。無理はダメですよ」「はい」


二人きりになってもケライは何をすることもなくアルジを見ていた。視界の対象が治療室のドアからアルジの寝顔に変わっただけだ。

「ケライ」

ふいにアルジが話したように聞こえた。「はい」ケライが返事をする。だがその目は閉じられている。気のせいか。

「ケライ」また呼びかける声があった。「はい」ケライも再び返事をする。

ゆっくりアルジの目が開く。

「ケライ。会いたかった。ずっと」感極まったのか,アルジの目がにじむ。と,その目頭にケライの指が伸び,ぐっと抑えた。

「人前で泣いたら負けです,アルジさん。侮られますよ」相変わらずケライは手厳しい。

それからアルジは痛みが和らぐという理由でケライに身体をさすってもらいながら,いくつか話をした。ケライの腕がとっくに治っていることや,爪が新たに伸びたこと。二人はこれからも里にいられること。互いにつらい思いをした。寂しい思いをした。だがそのことは言わなかった。もう,つらくも寂しくもないからだ。

「ねえ,ケライ」「何ですか」「こんどは私からケライに触ってもいい?」「だめです」「どうして」「アルジさん襲ってきそうです」「襲わないよ。そんな度胸ないし」「…でもだめです」「じゃあ,今度から撫でてってお願いしたら撫でてくれる?」「嫌です。早く治してください」

アルジが深くため息をつく。だが,ケライになでてもらうことで落ち着くのは本当なのだろう。呼吸のリズムが穏やかなものに変わっている。

「ケライ」「何ですか」「もし私が目覚めなかったときのために,マッパさんに代わりに伝えてほしいことがある」「だめです。目覚めてください」「なるべく頑張ります」「約束ですよ。それで,伝えてほしいことは何ですか」

「狡舞鳥を餌付けしようと思う」



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