111

アルジとケライの二人は湿原に続くキャンプでマッパの置き手紙を発見し,そこに書かれた荷物をジブーに乗せて針山のキャンプへ向かった。キャンプの設営のため獣車で何度か訪れたことはあったが,徒歩となると想像以上に遠い道のりだった。マッパはこれまで移動手段として獣車やジブーを利用したことはほとんどない。ゆえに,いまアルジとケライが感じている疲労をマッパは常に抱えながら調査をしてきたことになる。まあ,本人はそんなことを微塵も感じていないのかもしれないが。


「遅いぞ」

いち早く針山の麓にあるキャンプに到着していたマッパは,すでに三人分の荷造りを終え,待ちくたびれていたようだった。マッパほど足が速くない,と文句を言えないような不機嫌さである。

「今後の予定を教えてください」ケライはその様子に怯まず質問する。マッパは立ち上がって尻の汚れを払った。「いずれにせよ今日登り切るのは無理だ。明日にしよう。どんな場所か下見に連れていくくらいならできるが」その言葉にアルジが何度も,何度もうなずく。

その様子に,仕方ない,といった顔で「わかったよ。雨具の準備だけは忘れるなよ」とマッパが答えると,アルジは急いで大きな防水頭巾をかぶり,ケライの頭にもかぶせた。

「私も行くんですか」アルジのあごひもを結んでやりながらケライが問う。「得られる情報は多いほうがいいから」とアルジ。実際には,マッパを怒らせないよう,今日のうちに説明を一度で済ませたいという思惑があった。明日からケライが加わればまた同じことを説明するはめになるからだ。かといってアルジが説明してしまったら,マッパの手柄を横取りすることになるので,それらをすべて解決するにはケライを連れていくのが良い。

「あ,ケライ,待って」キャンプを出ようとするケライを呼び止めると,アルジは保湿用の軟膏をケライの顔に塗った。「自分でできますよ」「ひも結んでくれたお礼ね」「おまえら早くしないと夜までに帰れなくなるぞ」


北の大陸は基本的には晴天であることが多いのだが,針山だけは低い雲に覆われている。よほど日当たりが悪いのか,地面に緑は全くなく,イバラのような木ばかりが立ち並んでいた。

ぼとっ。

ケライの頬に巨大な雨粒が当たった。それは粘っこく顔をぬって,地面に落ちる。

「これがマッパさんの言う,当たるとしびれる雨ってやつですか」頭に雨粒を受けたアルジが聞いた。「そうだ」当のマッパは平気なので当然雨具など身につけていない。

忘れたように降ってくる雨に当たりながら進むと,頭上を飛ぶ影があった。アルジが身構える。

「気にするな。こっちに敵意はない」

いくつもの影がトゲの枝を飛び移ってゆく。その姿は毛むくじゃらの猿のようではあるが,顔は明らかに違うし,尻尾もない。この針山に適応した生き物のようだ。よく見ると,アリクイのように細長い顔で,その舌を幹に伸ばしている。こんな木にも栄養分があるのだ。何をエサにしているのだろうか。若芽か何かか。まさか立枯れているような木から樹液が取れるわけでもあるまい。

立ったまま興味深そうに空を見上げるアルジに,マッパが「早く行くぞ」と急かす。名残り惜しそうに通り過ぎていくアルジの頭上を,それは鞠のように全身を丸めながらぴょんぴょんと飛び交っていた。

毛鞠獣テンバイと名づけよう。アルジは心に留めた。



それは毛鞠獣と名づけられた生物が意図したものではない。たぶん,偶然である。食事中であった毛鞠獣の口から木の若芽がこぼれ落ち,アルジの頭に当たった。妙に小さな雨粒だな。そう思って顔を上げたアルジに,本物の雨粒が命中した。

あっ。

アルジは全身の力が奪われるのを感じた。つかまえた。そう空がいやらしく笑うように思えた。アルジに落ちた雨は粒とはならず,糸のように雲と結ばれていた。やがてそれはみるみる太くなり,アルジの半身をのみこむと,するするとその身体を引き上げていった。

「おい,アルジ」

いいかげんにしろ,とばかりに振り返ったマッパは,ケライの後ろにアルジがついてきていないのを知った。



(c) 2018 jamcha (jamcha.aa@gmail.com).

cc by-nc-sa