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この章ではストーリーに展開はない。ゆえに時間を進めたい読者は飛ばしてほしい。
ケライにとっては大体一日ぶりの治療室である。だがその様子は大きく変わっていた。アルジの口にはマスクがかけられ,点滴が身体につながっている。眠っているのか,規則正しくマスクから音が聞こえる。
「昨日はケライさんと話せるようにってショムさんに外してもらったんですけど,やっぱり吸入量を増やさなきゃいけなくて。肺を無理矢理広げてるからすごく苦しいと思うんですけど,でもアルジさん頑張って我慢してます」
ケライも経験したからそのつらさは知っている。ただ,マッパがアルジを床に押しつけなければ,使わずに済んでいたかもしれない。
「最初運ばれたときは背骨が丸見えなんじゃないかってくらい,削れてたそうです。それも結構塞がったんですけど,昨日のことがあって,また開いちゃって」
ミミはマッパにあてつけをする狙いはなかった。なぜならこの事実はケライがアルジの怪我を悪化させたことも意味していたからだ。ただミミが言いたかったのは,これだけ重傷なのに,ケライに狡舞鳥のことを伝えたということだった。里のなかで狡舞鳥と唯一手合わせをした者だけが知ることを。
「アルジ,すまなかった」アルジが起きないよう小声でマッパが詫びた。「元気になったら,ケライと三人で針山の向こうまで連れていってやるから」
「本当ですか!」
そんなふうに,もしアルジが起きていたらきっと大喜びしていたことだろう。マッパは冗談で言ったかもしれないが,アルジにとってはこの大陸で未踏の地を冒険できる,それだけで幸せなのだ。
「アルジさん,って呼びかけると,血圧が上がることがあるんですよ。聞こえてるのかもしれませんね,私たちの言葉」そう言ってミミは笑う。
するとケライが「がんばれ,アルジさん」と呟いた。シンキから教わった,アルジを,そして自分たちを励ます方法だ。
「アルジさん。昨日話して,もっと話したいことが増えました。だから元気になってください。またお話ししましょう。何時間でも,何日でも。アルジさんが怪我してから,保健の勉強をしています。ショムさんみたいになるのは何年もかかるかもしれませんが,アルジさんが怪我してもすぐ治せるように,勉強します。そのときまで,一緒にいてくれますか」
昨日はどれだけ話せたのだろうか。ミミは思った。ほとんど話せなかっただろう。ふだんの会話では「はい」「そうですか」「何ですか」くらいしか発しないからだ。何か言われて悲しかったり,うれしかったりしても,それを相手との話のなかで表すことはほとんどない。もしケライが「うれしい」と口に出すとき,本当にうれしいのだ。
ふと,ミミは自分がケライを陥れようとしたとき,ケライが言った言葉を思い出した。
『アルジさんが元気になってくれるなら,私,しあわせ,です』
治そう。絶対に治そう。ショムさんが参ってしまっても,私とケライの二人で治そう。そしてみんなで帰るんだ。
礼供祭からひと月もたたずに終わると思っていた。ずいぶんと長くここに留まっている。でもアルジとケライが来て時間が動き始めたのだ。ようやく。この時計を,決して,止めてはならない。止めさせない。そう静かに決意するミミの横で,ケライは思いがふきだすように言葉を続けた。そして,マッパはなぜケライが自分に喧嘩を売ったのか,その理由をこのとき理解した。
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