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風の流れを頬に感じ,アルジは目を覚ました。

寒い。なんだこの寒さは。そしてこの身体にねばつくものは。ふっと上体を起こし,滑りそうになるのをこらえる。今がいつで,どこなのかも全くわからない。そしてなぜ滑るのかも。

太陽は大きく傾いている。自分の身体は屋外におかれているようだ。夜が迫っている。だが自分の知っている太陽ではない。空の明るさに比して,その位置が高くありすぎるような。

あれ?

空?

これほど空とは自分に近いものだっただろうか。まるで自分が岸辺にあって,その先に水面ではなく薄青の空が続いているような。

アルジの支離滅裂な思考が次第に収束してゆく。

そして状況を把握するにつれ,寒さとは異なる身体の震えがやってきた。これほど自分の手足がないことを感謝したときはない。もし手足がその先まで健在であったなら,自分の意思とは関係なしに,震えのあまり身体が暴れ出し,その身体すべてを失うことになっていただろう。

アルジは空の上にあった。針山を覆う雲海の上。ねばつく物体でかろうじて何かにへばりついているが,それは表面がツルツルとして,すべりやすい。何だ。何があった。私は雨に捕まり,空へ吸い込まれた。そこから先の記憶はない。死んだ,と思った。だが生きている。この感覚。ここはあの世でないことはわかる。そもそも自分のような罪人が死んで天になど行けるものか。私の行く先は地の底でしかない。

目を閉じて,これまで収集した情報を整理する。そして思い至り,目を開く。

自分が乗っている黒い円盤は何だ?周囲を見回す。ふと,風の吹く方向に突起が出ているのを認めた。いや,突起ではない。

亀だ。その顔はまぎれもない亀の顔だった。空を飛ぶ亀。おとぎ話のようである。毛で覆われた尻尾はなく,大きな前足と平たい身体で風を受けながら,優雅に空を舞っている。それだけならいいが,自分はその上にいるのだ。

助けてくれたのか?違う。そんな何のためにもならないことをするものか。

この亀は時折首を動かしながら何かシャリシャリと音をたてる。それが風のなかにまざってアルジの耳に届いた。そうか。こいつは雲を食うのだ。だが何のために。そもそもあの音はなんだ。雲のような気体など,噛んで音を生じるものだろうか。

ふいに,図鑑で見た場面が浮かんだ。亀が海を泳ぐ絵。優雅に。つぶらな瞳。それを彩る数々の魚。そして,亀と並んで浮遊する,透き通った…

!!

まさか。急に視界が晴れるように感じた。目の前の雲は,アルジのひらめきとともに真実の姿を現してゆく。幾重もの羽衣が折り重なったような半透明の身体。雲と信じて疑わなかったことで,かえって正体が見えなくなっていた。それは自身を隠そうなどとしない。そんな低俗な世界にはいない。アルジはマッパに感謝した。こんな感動を再び味わえるときが来ようとは。


自分が雲と錯覚していたものは,針山を覆うほどに巨大な,空を漂うクラゲであった。

天に張られた布,天巾 (てんきん) アールケナン。無防備に空に閉じこめられておきながら,アルジは自身のネーミングセンスが冴えわたることに満足した。

おそらく,クラゲといっても複数の個体が群をなしたものだろう。そのうち,触手にあたる部分に自分は捉えられてしまったのだ。本来ならそのまま取り込まれ,全身を吸いつくされたあげく,服と骨,義肢のみが地面に落ちていたところだ。

だが,偶然にもこの亀の捕食行動に救われた。おおかたそんなところではないか。なんであれ,この亀が自分の命の恩人ならぬ恩亀であることは間違いないだろう。

それにしてもこの高度で形が崩れないとは,この天巾という生物はどういう仕組みをしているのか。特殊な保水構造に違いない。里に持ち帰りたい。

いや,そんな悠長なことは言っていられない。この亀がこのまま何昼夜と空を飛び続ければ,自分は確実に死んでしまうからだ。どこかに着地してほしい。それだけを祈り,アルジは体力や体温を奪われないよう身体を丸めて必死に心を落ち着けようとした。



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