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ケライの血染めの,といっても実際に血は出ていないが,代筆によって完成した書類を持ち,アルジはオヤブンとの交渉に望んだ。ザエルの生態把握のため,再び森に調査に入るというものだ。
「だめだ。キミが勝手に名付けたそのモンスターがどれほど危険かはキミ自身が一番よく知っているじゃないか」
いつもの喧嘩が始まった。
「ザエルの生息する森は,雪山ほどではないにせよ,エサの少ない過酷な土地です。ここを調査できなければ,今後エサが豊富で競争の激しい地域の調査など永久にできません」「周辺のより安全な地域を調査して経験を積んでからでも遅くはない」「そんな地域はもうありません。一方ではシンキさんとボッチさんが大怪我をし,もう一方ではケライが大怪我をした。もう私たちは命を常に危険に晒すほどの地域まで調査が進んだと考えるべきです」「全ての可能性を調査したわけではない。マッパが調査を進めている」「マッパさんの調査が行われた地域でケライは怪我をしました。マッパさんの報告は安全を保証するものではありません」「詳細に情報を分析すればどこが危険かはある程度判断できるはずだ」「今でさえショムさんは働きすぎなのにこれ以上負担をかけるんですか。ショムさん以外にそんな分析ができるような人はいません。新たに学べるような資料も,時間もありません」
オヤブンとアルジの意見が一致することは基本的にない。互いに一定のレベルを超えると根拠のない推測を戦わせることになるからだ。それは経験にもとづくカンを上手く利用して組織を運営してきたオヤブンと,自身の直感で困難を解決してきたアルジの違いが原因で起きる。どちらも自身の考えに絶対の自信をもち,謝ったら死ぬ病にかかっているのかもしれない。判事のように判断を下せる第三者がいればよいのだが,肝心のショムは忙しすぎて幽体離脱しかかっている。
「では私だけで調査に行くのはいかがですか」煮え切らないので,アルジは突如無謀な極論をぶつけることにした。「なに?」「私だけで森の調査に向かいます。以前オヤブンさんは私の存在がボッチさんたちの迷惑であるとおっしゃいました。ですから,仮に私が森でザエルに襲われて死ねばボッチさんたちの負担もなくなりますし,私が生きて帰ってこれれば研究は大きく進みます。文句はないでしょう」
前にもこんな自分の命を粗末にするようなことをオヤブンに言ったことがあった。だが今回は場をとりもつショムもケライもいない。
オヤブンは愚かなアルジにあきれかえって言った。「じゃあ勝手にしたまえ。言っておくが,二次被害を防ぐために救援は出せないからな」
「ありがとうございます。では行って参ります」アルジは礼をして部屋を出た。
それはアルジへの餞別だろうか。ちょうどよいタイミングで,ミミが義足の試作品が完成したと言ってきた。
「どうですか。関節部に違和感がなければいいんですが…」義肢の製作は初めてとはいえ,金属加工の経験は豊富である。丈夫さを重視したせいか多少は重いものの,歩行や走行で困ることはないほどの圧倒的な安定感だった。久々に地面をつかむ感覚にアルジは喜ぶ。
「ミミさんは天才ですね。義足職人だったのかと思うほどです」奇妙な褒め方にミミは苦笑いし,頬をかきながら「喜んでもらえて何よりです」と言った。
「これなら生きて帰れるかもしれません」「えっ?」「私,一人で森に行ってきます」
アルジはミミに自分の決意を語った。ミミは不満と,心配と,その他の言葉にできない気持ちを込めてアルジを責めた。どうして進んで自分を危険に晒すのか。なぜ誰にも相談しないのか。アルジの心は里にない。ふいにどこかへ行ってしまう。そんなミミの懸念は現実となった。だがアルジが抱く気持ちは,これまでの炎に身を投げてその中心を見ようとするような無謀なものではない。中心を見ようとした結果,炎に飲まれることになっても。
「安心してください,ミミさん。危なかったら逃げてきますから。まあ逃げられるかはわからないけど,でも,成果を持って帰ってきます。だから,帰ってきたら,またお話しませんか,あのときみたいに」
あのとき。あれから随分経ったような気がする。アルジの言葉を聞いて,ミミの心に笑みが灯った。「ええ,喜んで。約束ですよ」ミミはアルジの肘から伸びる透明な薬指と指切りをした。
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