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アルジがいた頃の里は,活気があったものの怪我人も多く,何かに追いたてられるような雰囲気があった。それはアルジ自身が焦燥にかられ,周りを巻き込んでいたからというのもあるだろう。それに対し,今の里は穏やかで,争いとは無縁である。アルジがいなくても里は回る。そこにいるだけでトラブルを引き起こすような人物は,もう退場してもよいのではないか。だがそうもいかない事態が起きた。

アルジを瀕死に追いこんだモンスター,狡舞鳥グリュンプリドが再び確認されたのだ。それは針山で建設中だったキャンプや,湿原へ続く雪山のキャンプにおかれた食料を食いつくした。それらの食料は密閉されていたから,ニオイではわからなかったはずなのだが。とすると,かつて隊員がキャンプで食事をとったことを観察していたのだろうか。いずれにせよ幸運だったのは,獣車がその視界に留められることなく里に帰還できたことである。荷物を引く二頭のダモスと,素早い移動手段であるジブーは里の機能を維持するうえで不可欠な,かけがえのない財産だ。一頭たりとも失うことは許されない。

ただ,狡舞鳥が雪山のキャンプを見つけたという事実は,恐ろしい可能性を示唆した。やがて里を見つけだしすのではないか,というものだ。かのモンスターは,アルジを瀕死に追いこんだ相手である。マッパが不在のときに里を襲撃されてはひとたまりもない。

そこで,里の隊員達による緊急のミーティングが行われることになった。そこには拠点の建設を中断されたマッパも加わっている。モンスターと遭遇しないという傾向は変わらず,マッパはこれだけ前線にながら狡舞鳥を見たことがない。理不尽に踏みにじられたキャンプの残骸を見て,憎しみを燃やすだけだ。


じっとしていられないクビワ,不参加のオヤブンをのぞき,全員がラウンジに集まった。そこで目立ったのは,ミミとケライが見違えるほどに肌のハリを取り戻していたことだった。それは疲れを隠しきれないショムの肌と対照的であり,指摘すれば腹を裂かれるだろう。さらに,以前シンキが見たときほど密着してはいないものの,なおミミはケライに寄り添っており,幸福に満たされたかのように,にこにこ笑っている。

二人の様子があまりに異様なので,シンキが不審な顔で尋ねた。「ミミ,あんた,何したの」

「ん?んふふー。内緒です」そう言って頬に手を当て,とぼける。

マッパは「くだらんことを言ってないで話を始めろ」と急かした。こいつらには危機感が欠けている。

その言葉にボッチがあわてて資料を開く。シッショが書いた内容をまとめなおしたものだ。こうしてモンスターの対策のために報告書が使われるのは初めてである。アルジがこれまで関わったものはほとんど積まれたままだというのに。

「では,今回湿原で確認された巨脚鳥グリュンプリドについて…」「待て」マッパがボッチの話を制した。話せと言ったり待てと言ったり,なんなんだこいつは。

「アルジはどこだ。あいつがいないと話にならん」

その言葉にラウンジの時間が一瞬止まる。「アルジさんは大怪我をして…」「そんなことは知っているしどうでもいい。あいつがいないならこんな集まりなど時間の無駄だ」ショムの説明を切って,マッパは不満の言葉を述べた。ショムに睨まれながら,マッパはなおも不機嫌な様子を隠さない。

「アルジさんはまだ意識が戻っていません」「怪我は治っているんだろう。気つけ薬でも使って叩き起こせ」「そんな危険なことできません。ケガだってまだ」「じゃあこれで解散だ。何が緊急の対策会議だ。ロクな資料も用意しないで偉そうなことばかり言いやがって。ここでこんな無能どもが首を揃えて話したところで,そいつに対抗できる案でも出るってのか?」

ロクな資料も,という言い方にボッチが苛立ちを見せる。確かに書類は薄く,まともな情報などほとんどないのは明らかだが,だからといってそれを非難していいわけではない。

マッパだって普段からこれほど失礼な態度をとるような人物ではない。キャンプを破壊された恨みが消えず,しかも里が襲われるかもしれないのに,その危険な状態を認識していない隊員に不満があるのだ。

「侮辱的な発言は控えてください」ショムが釘を刺す。「事実を言ったまでだ。お前らが知っているのはそいつが大飯食らいってことぐらいだろうが。そんなのでどんな話ができるってんだ」

「毒入りの食べ物,とか」全員が声のする方を見る。シンキだった。

何の気なしに呟いたものだったが,思わぬ注目をあび,本人のほうが驚いたようだ。背中を丸めて顔を伏せてしまう。「何が効くのかわからないのに,なにが毒だ」マッパが今度はシンキに怒りをぶつけようとする。

「血を溶かす薬を使ったらどうでしょう」こんどは別のところから声があがった。ミミだった。「血を溶かす薬?」「抗血液凝固剤のことですか」マッパの問いにショムが答える。ミミがうなずく。

「なんだそれは」「ふだんは血栓などが原因で起きる疾病を防ぐために…」「細かいところはいい。結論だけ言え」説明を始めたところを中断され,ショムが苛立ちの視線をマッパに向ける。細かいところだと?こいつは知識は積み重ねてはじめて知恵になることがわかっていないのか?

「それを大量に摂取すると,全身の血管が破れて死にます」ミミが返事をした。抗血液凝固剤とか抗凝血剤とか呼ばれる薬は,血液を固まりにくくさせる。それは詰まった血管などを治療するうえで不可欠だが,大量に投与すると当然ながら血が止まらなくなる。体内で血管は日々損傷と修復を繰り返しているため,この薬で修復のプロセスを働かなくさせると,やがて全身から出血して衰弱死することになる。

マッパが大きく息をつく。「つまりはその薬を混ぜたエサをばらまいて,鳥が死ぬのを待つってことだな」ミミたちはその言葉にうなずいた。

「えっと,環境への影響は」今まで提案をしていないボッチが,ふいに重箱の隅をつつくような発言をした。くだらない。今は危険を退け,自分たちが生きのびることのほうが大事なのだ。環境に配慮するなんて余裕はないはずだ。そんなことは後回しでよい。知識のないやつは黙ってろ。

だがその問いにマッパは腕組みをした。「ふむ。その薬はすぐに分解されるのか?たとえば,鳥の死体を放置して,それを食べた周辺の動物が死滅することになるかどうかを聞いているんだが」

マッパの翻訳を受け,ショムが複雑な表情をする。「体内で分解されないので,撒いたエサと,死体を回収しないと,それを食べた動物にも薬品の影響が及ぶ可能性があります」

一時的にもりあがった雰囲気が再び冷えてしまった。

そのときはそのときだ,とはいえない。なぜなら,湿原や近辺の湿地は農地として利用できるかもしれないからだ。もし薬品がその場に残りつづければ,仮に作物を育てたところで食べられなくなる。

「よし」そう言ってマッパが立ち上がる。

「打ち合わせはこれで終わりだ。アルジを起こしにいくぞ」

そのままマッパはラウンジを出ようとする。「ちょっと,待ってください」ショムも急いで立ち上がりマッパを止めようとする。本来は服の袖をつかむなり,穏やかに相手を引き止める手段があるが,あいにくマッパにそのようなものはない。

マッパの足は速い。次々にドアを開き,「やめなさい!」とショムが止めるのも聞かず,治療室のドアを勢いよく開け放った。


ベッドには,端に腰かけたまま,こちらに背を向けてぼんやりと佇むアルジの姿があった。

「なんだ,起きてんじゃないか」



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