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「クビワ」

両腕に籠手をはめたクビワが,森の王を臆せず睨みつけている。

風が吹いた。直後,ザエルの体毛が大きく削がれる。驚いたザエルは周囲を見回すが,距離をおいたアルジでさえもその動きを捉えられない。速すぎるのだ。クビワが動いたあとに残るのは,瞳が放つ赤い残光のみ。

影をも留めぬ速さ。絶影。アルジが呟いた。

ザエルは思わぬ強敵に爆炎の拳で対抗するが,相手はその死角から防御の比較的弱い下半身を執拗に狙う。三尖槍でさえ断ち切れなかった毛は失われ,肉は血を帯び,骨の折れる嫌な音が響く。

シンキを焦がし,ボッチを断ち,キセイの,ミミの心に深い傷を負わせ,アルジとシッショの攻撃ですらものともしなかった森の王が,それよりもはるかに体格の劣る人間に屠られようとしている。その足は粉々に砕かれ,もはや歩むことはできない。

体勢を崩したザエルの肩にクビワが飛び乗る。そしてシッショの三尖槍を両手でつかむと,目を見開いて力を込めた。ぐりぐりとねじりながら槍が押し込まれていく。その先が目指すものは命の根源だ。激しい血しぶきがあがり,クビワの身体が真っ赤に染まった。

やがてザエルの身体が縮こまっていき,しばらくしてその動きを完全に止めた。それを確認したクビワが槍を引き抜き,地面におりる。

それを見る二人に言葉はなかった。ただ,先に言葉を発したのはアルジだった。「クビワさん,ありがとう」

と,その首筋に槍がつきつけられる。それは皮膚をわずかに抉り,血がしたたった。

「おまえがシッショをさらったのか」その目はザエルに向けられたものと同じだった。敵の返り血で真っ赤に染まった顔で,これまで見たことのないクビワの様子にアルジがうろたえる。するとアルジの髪を乱暴につかみ,顔を近づけてくる。

「おまえがシッショをさらったのか」

クビワはアルジの目から何かを見抜いている。アルジに責任の一端があるとわかっている。違う,といえばその槍がアルジの首を貫く。アルジがシッショをこんなめにあわせたことを知ったうえで,アルジがどう言い逃れするのか,それを聞き出そうとするような雰囲気だった。

自分の任務にシッショを巻き込み,これだけの状況にしてしまったのはアルジに原因があった。だからシッショの意思で参加したとはいえ,攫っていないといえば嘘になる。

「私が」「僕がアルジをさらったんだ!」シッショが叫んだ。クビワは表情を変えないままシッショを見る。「うそだ。シッショはこいつをまもるためにうそをついている。こいつはシッショをさらった。だからこいつもころす。はをぜんぶおってころす。ほねをぜんぶおってころす。あなをぜんぶひきさいてころす。ないぞうぜんぶひきちぎってころす」

「嘘じゃない。獣車でここまで連れてきた。討伐を誘ったのも,アルジに武器を渡したのも全部僕だ。アルジははじめ卵を採取しようとしていただけなんだ。だからアルジは悪くない」

「じゃあなんでクビワおいていった。おきてもシッショがいなかった。クビワはひとりだった」

「僕の力を試したかったんだ。クビワは僕よりもはるかに強い。全部勝手に倒してくれる。でも僕だって戦士だ。僕だって戦いたい。クビワの装備ばかり優先されて,僕の装備がほったらかしにされてるのがつらかった。みんなは僕をクビワの飼い主で,クビワの代わりに日記を書く毛むくじゃらの獣人だと思ってる。だけど違う。僕はシッショだ。猿回しじゃない。クビワと一緒に戦う,調査隊の一員なんだよ」

クビワは立ち上がると,アルジに突き立てた槍をゆっくりと下ろす。「クビワは,シッショのじゃまか?」

「違う!」耐えられなくなったシッショの頬に涙が沁みる。

「僕が僕になれたのも,生きがいを得られたのも,全部クビワのおかげだ。クビワのいない人生なんて考えられない。クビワの顔を毎日見られるだけで僕は幸せなんだ。だから,僕を守るためにクビワが傷だらけになって,痛いって言いながら,それでも笑顔で,傷を洗い流しているのがつらくて見ていられないんだ。クビワはこれまで散々ひどいめにあった。もっと幸せになっていい。傷つかなくていい。僕にクビワを守らせてほしい。それだけなんだ」

それからしばらくの静寂があった。カラン,という音とともに,クビワの手から槍が落ちる。

「シッショ…」

クビワの顔がくしゃっと歪むと,大粒の涙をこぼしながらシッショに抱きつき,大声で泣き始めた。シッショはクビワの髪を優しくなで,その温もりに普段のクビワが帰ってきたのを感じた。

アルジは森に足を踏み入れて以来,長く続いた命の危機からようやく解放された。大の字で寝そべり,大きな息をはいた。



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