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わかりました。
その言葉にミミの力が一気に抜け,思わずケライにもたれかかってしまった。
「すみません」ミミが身体を離す。「大丈夫ですか。無理しないでください」何も知らないケライは,自分を悪魔に差し出そうとする者にいたわりの言葉をかけた。
「じゃあ,オヤブンさんが待っています,から,オヤブンさんの部屋に行ってください」「こんな時間にですか」「はい,オヤブンさんも,早く,ケライさんと和解したいのでしょう」なぜ自分の心はこれほど乱れているのに,こんな嘘がぺらぺらと出てくるのか,不思議で仕方なかった。だがこれでいい。もうケライと会うこともないのだから。
ケライは,わかりました,と言い立ち上がると,ミミにお辞儀をした。改めて小柄な人だなとミミは思った。こんな小さな身体で,支配者たる竜人の暴力から,大切な人を守ろうとしたのだ。
「ミミさん,今までお世話になりました。アルジさんのこと,お願いします」
おそらく自分が里を離れると思っているのだろう。別れの挨拶だった。
「アルジさんが元気になってくれるなら,私,しあわせ,です」
幸せ…?ケライはアルジに二度と会えなくなるのに,なぜそんな気持ちでいられるのか。そうだ。ケライはミミを信頼しているからだ。ミミならばアルジを元気にできると信じている。だから,自分が会えなくなっても幸せ…なのだ。
「…はい。まかせてください」思わぬ言葉にミミはうわずった声を出してしまう。
再びケライは頭を下げると,ラウンジへ続くドアに向かっていった。
終わりだ。ふっとミミの内にそんな言葉が浮かんだ。
「待って!」
それはケライがドアに手をかけたときだった。背後から響く声に振り向くと,その身体にミミがしがみついた。きつく胸が締めつけられ,ケライの口から吐息が漏れる。
「だめ,行っちゃダメ。ダメ…です…」ミミの身体と声がぶるぶると震えている。いったい何が起きたのかわからず,ケライは混乱する。
「あの,ミミさん,苦しいです。離してくれないとオヤブンさんのところに行けません」「だめです,行ったら…」そう言ってミミは嗚咽を漏らし始めた。
「ミミさん,泣いてるんですか。どうして」「ごめんなさい,ケライさん,ごめんなさい…私,なんてことを…」
それから,ごめんなさいとひたすら繰り返しながら,ミミはケライを抱いたまましばらく離さなかった。ケライは肩越しに,ミミの涙と熱い吐息と,それが風でひんやりするのを感じた。
オヤブンの部屋をノックする音があった。予定していた時間よりもかなり遅い。だが大した問題ではない。オヤブンは自分の玩具をどうやって遊ぶか,壊すか,そればかりを考えていたのだ。
返事をすると,ケライが入ってくる。うまくいったか。と,その後に目を赤くしたミミが続いた。オヤブンとショムは怪訝な表情でミミを眺める。ミミはケライの前に立って,向かいあう二人に目を合わせた。
何らかの問題が生じたに違いない。だがこちらには人質がある。何があろうが簡単に言いくるめられる。
「ケライくん。ミミくんから話はあったと思うが…」
「そのことですが,私の話を聞いてください」
ミミがオヤブンとケライの間に割って入った。ひどい鼻声だった。
邪魔をする気か。そう思った。「…なんだね」
ミミは姿勢を正し,軽く咳をしてなんとか声の調子を取り戻す。そうしてオヤブンに毅然とした顔を向けた。
だがあっというまにその目は潤んだ。
「私たちは,罪のない人に,ひどいことをしようとしています」
顔が歪み,震える声でミミはなんとか言葉を絞り出した。
その言葉にオヤブンとショムはハッとする。
もちろん,ミミはその一言で二人を止められるとは思わなかった。だから,二人を説得するためにいくつかの準備をしていた。だが,次の言葉が出てこない。溢れる罪の意識が涙となってミミの目を押し出そうとする。声を出そうとするとこぼれそうになる。我慢して言葉を紡ごうとしたが無理だった。ついにそれは限界をこえ,大粒となってミミの頬を流れ落ちた。
床に落ちた一滴の雫は,部屋を支配していた黒い空気を一瞬で晴らすようだった。
「お願いします。二人…とも,考え直してくだ…さい」それを言い切り,ミミは立ったまま,声をころして泣き始めた。さっきまで泣き続けていたというのに,どこにこれほどの水分があるのか,あっという間に足元で水たまりができてゆく。
「わたし,たち,は,ひどい…っ…ひどい,こと…を…うぅっ」
その涙を拭いてやろうとケライは手を伸ばす。その手をミミは引くと,ケライの小さい身体を抱きしめ,守るようにして顔をうずめて泣き続けた。首元から肩までケライの服は涙でびしょびしょになった。
もしこれが単なる命乞いだったら,鼻で笑われたことだろう。自分だけ助かろうとしているのだから。だがこの涙は自分でなく,人の命を救うためにこぼれたものだった。ミミは里に来てから幾度も泣いているが,本来それほど泣き虫というわけではない。親友が目の前で生きたまま焼かれ,手足がないことをあざ笑う者や,自分の満足のために人間を玩具にしようとする者が咎められなかった,これまでが異常すぎたのだ。
オヤブンもショムも,いまこのときまで,その心は憎しみに満ちていた。ケライを陥れることを想像して気分が高揚していたほどだった。だがまるで,ミミの涙をきっかけに『私は今まで何をしていたんだろう』と自分の心が入れ替わるようだった。我に返るとはまさにこのことだ。その直後,前の自分に対する嫌悪と,それが自身を支配していたことに対する償いようのない罪悪感が強烈に突き上げてきた。
どれだけ権力や知識があろうが関係ない。些細なきっかけがあり,それを咎めない雰囲気が後押しすれば,これほど簡単に自分は邪悪に染まるのだ。恐怖した。だが,大きな力に見えるものであっても,なおも流されない者があれば,そして時機さえ合えば,わずか一言の勇気ある言葉で元の自分を取り戻すことができるのだ。
なおも泣きじゃくるミミを眺めながら,オヤブンとショムは目を合わせ,二人とも正気に戻ったことを確認しあった。そして,互いに思ったことは,残酷な誘惑を断ち切れたこと,そして歯車が動き出す前に止められたことへの安堵であった。
ケライはアルジを守ろうとしただけであり,ミミはそのケライを守ろうとしただけである。本人は自分が勇敢なことをしたとさえ思っていない。だが二人が立ち向かったのは見えない相手である。オヤブンの背後には竜人族という他を屈服させる力が控えている。自分の生殺与奪を握るだけでなく,今後をも支配する強大な力である。それにも関わらず,相手がやろうとしていることはひどいことであり,人を傷つけることであると訴えた。オヤブンにとって,それはこれまでの長い人生で転換点になるものであった。生きて南へ帰れれば,竜人と人間,獣人の距離を縮める転機となるほどの出来事だった。
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