165

シッショとキセイが獣車に乗って森のキャンプに戻ってきた。今日運ぶ分はこれで終わりだ。夕食の準備に取りかかるため,キャンプの奥で一人座りこむシンキを呼ぶ。シンキはのそのそと出てきて手伝おうとするが,いつもの元気な様子ではない。

「シンキ,何かあったの?」シッショが気になってたずねる。シンキはすぐには答えず,目を泳がせながら何か迷っているようであった。「シンキ」シッショは優しく言い,シンキの心配を打ち明けるよう促す。

「シッショさん,あたしクビワを怒らせたかもしれない」

その言葉に一瞬シッショの手が止まり,キャンプの中にクビワがいなかったことを思い出す。だが間もなく元の表情に戻り,「何かあったか知らないけど,もうすぐご飯だし,すぐに戻ってくると思うよ」とシンキを安心させるように言った。

その日の夕食には,クビワの好きな香りのするスパイスを多めに入れた。


クビワは戻ってこなかった。シンキの顔は暗い。シッショはシンキの向かい側に座ったまま,焚き火の穏やかにゆらめく様子を眺めている。何かを待っている。それがシンキにとっては無言の怒りを表しているように感じられ,つらかった。

シッショがわずかに動く,と,その口が開く前に「シッショさんごめんなさい」とシンキが謝った。謝らせるつもりなどなかったのだが。ただ,都合は良い。シッショは姿勢を直し,「何があったのか言ってくれる?」と説明を求める。ついつい尋問口調になってしまうことを詫びながら。

シンキにもどうしてクビワがいなくなったのかわからない。

ボッチが心配になったシンキは,置き手紙を残して川の向こうへ行こうと考えた。そのうえで,どう川を渡るかが問題になった。船は一艘しか用意しておらず,それはボッチたちが向こう岸に残したままにしてあるからだ。そこで怪力のクビワに泳いで自分を運んでもらおうと考えた。

クビワが昼寝から覚めたところでそれを伝えると,暇だったのか,はじめは乗り気だった。だが,川向こうでボッチを見つけるにはクビワの鼻が頼りだ,と伝えた途端,急に暴れ出し,シンキが止めるのを振り切ってどこかへ行ってしまったのだ。

話を聞くかぎり,シンキに非はないように思える。シッショは気にしないよう言い,クビワを探しに出た。キバとツメの姿もないから,ついて行ったのだろう。

地面に鼻を近づけ,わずかなにおいを嗅ぎ取ろうとする。シッショは人よりは鼻がいい。はじめに感じたのはキバとツメ,すなわち裂掌獣のにおいだ。強い体臭は森の中で自分の居場所を知らせ,無用な争いを防ぐことができる。

ぬかるんだ土に先のとがった足跡を見つける。裂掌獣のものだ。だがまだ大人ほどの大きさではない。間違いない。この先にいる。シッショはクビワの好きな香草を手でもみながら,においにつられて出てくるのを願った。


「クビワ」

斜面に土の盛り上がった場所があった。その影から裂掌獣の尻尾がのぞいている。頭隠して何とやら,といった様子で滑稽である。まあ当人たちに隠れたつもりはないだろう。回り込むように進むと,案の定,クビワがその影にうずくまっていた。その顔をツメが舐め,キバは我関せずといった様子で,あくびをしながら後ろ足で自分の首を掻いている。

「クビワ」再度呼びかける。だが返事はない。「帰ろう」「やだ」「どうして」「かえらない」

「シンキに何かひどいこと言われたの?」クビワは顔を横に振る。シッショはクビワの隣に座ってその顔をなでる。

ぐぅー。

その情けない音に,思わずシッショは吹き出してしまった。「わらうな!」と恥ずかしがるクビワに,シッショはカバンから練ったパンを差し出す。途端にクビワの瞳が輝いた。


シッショが持ってきた食べ物を,鼻をすすりながらクビワは食べる。キバとツメは一瞬でたいらげてしまい,足りない様子だ。帰ったら好きなだけ食べさせてやろう。

「どうしてこんなところまで来たの」「いきたくないから」「川の向こうに?」クビワはうなずく。「どうして」「もりがあるから」「森?クビワは行ったことがあるの?」クビワは顔を横に振る。「シンキがいった」

シンキの証言には誤りがあった。クビワが暴れたのは,川の向こうに森が広がっていることを伝えたからなのだ。どうして森に行きたがらないのか。そこからシッショは一つの可能性を導いた。

「その森にはクビワの兄弟がいるの?」クビワは顔を横に振る。「きょうだいはみんなしんだ。でもなかまがいる」

そういうことだったのか。クビワの家族が森の住人,すなわち虚凧である,ということはアルジから聞いていた。だがこの森に虚凧がいることは知らなかった。もっとアルジから話を聞いておくべきだった。アルジはこのことを知っているのか。いや,むしろクビワは自分に隠しておきたかったのかもしれない。シッショと会う前に,クビワたちの仲間だった者が,やがて調査隊の前に立ちはだかる敵になることを。

「もしかして,あの宿営地にも来たくなかった?」「どこ?」「昨日,みんなで寝たところだよ」

クビワはためらうように少し時間を置いて,うなずく。森のキャンプはその名のとおり,キャンプから森を見下ろすことができる。かつて一度,シッショを救うために,クビワは覚悟を決めてそこへ足を踏み入れた。だが,いつかそこへまた行くことがあるのではないかと,気が気でなかったかもしれない。

「でもシッショがいくっていったから」最後まで言わせず,シッショはクビワを強く抱きしめた。「ごめんよクビワ。僕のせいだ。もう絶対クビワを森には行かせないから」

仲間と戦うことになるかもしれない恐怖,それをおしてクビワは裂掌獣からシッショたちを守ってくれたのだ。もうそんな怖い思いさせるものか。

動かないシッショの片腕を見ながら,クビワは残った腕から伝わる力と,自分を大事に思う気持ちにほっとした。シッショの腕の毛を鼻息でなびかせながら,そのままクビワは安心したように眠りにつく。二人と二頭はそこで夜を過ごし,翌朝キャンプに帰還した。



(c) 2018 jamcha (jamcha.aa@gmail.com).

cc by-nc-sa