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翌朝,日の昇る前にアルジとシッショは里を出て,獣車で湿原方面へと向かった。クビワの世話はキセイに押しつけてある。迷惑このうえない。本来ならクビワをシッショから離すべきではないのだが,アルジにはクビワを連れては行けない理由があった。
いまシッショが操るダモスはボッチたちが森へ向かった際に連れていたものだ。もう一頭はつい先日,湿原で命からがらな目にあった。相当参っているのか,毛ヅヤも悪く,弱っている。回復したところで,いくらキセイがなだめようと,湿原方面へ行くことは二度とないだろう。
シッショたちも,この間にどれほどあの泥が陸地を侵食したのか把握していない。里は引っ越しに向けた準備に大忙しだからだ。特に気を遣わなくてはいけないのは洗面用具。地震以来,何日にもわたって湯浴みできていないショムたちは,言葉にはしていないものの,かなり気が立っている。それがさらに長期化することが予想され,引っ越しには全く乗り気でない。
ただ,里から遠く離れた大穴に調査に向かううえで,医療の要であるショムを森のキャンプへ移送することは何よりも重要だった。そのためなら大釜の風呂だろうが何だろうが用意するつもりだ。
山の中腹から湿原を見下ろしたとき,二人は言葉が出なかった。見渡すかぎり,黒く粘つく泥ばかりだ。この数日のあいだに,アルジが土蜘蛛と呼んだ泥はさらにその範囲を広げている。
「僕らが脱出したときはまだあの木までは届いていなかったんだけれども」そう言ってシッショは藍穿花があった方を指差す。あった方,というのはそのままの意味だ。ケライを傷つけた忌々しい藍穿花の姿はもはやない。藍穿花がぽつぽつと並んでいた大地は,かつては獣を食らう落とし穴がひしめく天然の地雷原だった。だがアルジたちを拒みつづけた罠も,土蜘蛛の前では無力に等しく,泥に飲まれ,その茎はすべてなぎ倒されてしまったようだ。
「このままいくと,土蜘蛛は森にも達するんじゃないでしょうか」アルジがシッショに確認するように言い,シッショもうなずく。湿原と藍穿花の大地を挟んだ向こう側に,裂掌獣や虚凧が住む森が広がっているのだ。このまま放置すれば大穴の調査どころではなくなってしまう。
「アルジ」シッショが呼びかけた。「そろそろ僕をここへ呼んだ理由を聞かせてもらえるかい」
そうだ。アルジはジブーに乗れば一人でもここへ来ることはできる。腕を負傷し,武器をまともに扱えないシッショが戦力になるとは思えない。シッショを連れてきた別の理由があるはずだ。
するとアルジは,里から持ってきたロープを持ち出した。「この縄を私に巻くので,もしものことがあったら巻き取ってもらえませんか」「いいけど,何をするの?」「土蜘蛛を採取してきます」「そのために僕を呼んだの?」アルジの真意が別にあることを読み,改めて問う。アルジは無言でシッショの目を見た。何らかの決意を認め,シッショは「わかったよ」と表向き納得する。
腹に巻いた鉄板越しに縄を通す。相変わらず無茶をするやつだ。ただ,これまでそうして数々の困難を打開してきた。アルジなら今回も大丈夫なのではないか。そんな油断がシッショの頭をかすめてしまう。
「アルジ」「何ですか」シッショの呼びかけに振り向く。「絶対に無理はしないで。約束だよ」シッショが真剣な顔で言う。アルジはその言葉に「任せてください」と噛み合わない返事をした。
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