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獣車の脇で,アルジの全身についた泥を払いながらシッショは思う。大した打ち合わせもせずに送り出したのは自分のミスだ。だが救助できるような力もない自分に命綱を託し,安易に危険地帯に向かうのは無謀にもほどがある。今回はダモスの力で引き上げることができたけれども,もしここでアルジを失っていたらシッショは里で非難されただろう。当然,マッパをのぞいて,言葉では罵られない。けれども,隠しきれない冷たい視線が襲うのだ。きっと。それは,大事な仲間を失い,そして助けられなかった罪悪感で苦しむ自分に追いうちをかける。
シッショはクビワを守るため,何度か自分の命を投げ出そうとした。それは残された者に,今のシッショが感じる鈍い思いと同じものを抱かせることになるのだ。
「アルジ」シッショは感情を押し殺して呼びかけた。アルジは口の中に入った泥を吐き出しながら,舌の感触を確かめている。「はい」「今からアルジを殴るよ。いいね」理由はわかっているだろう。「…はい」
アルジは目を閉じ,歯を食いしばった。シッショは,その火ぶくれした頬めがけ,平手を打つように,
湿布を張った。
「痛っ」はたかれた痛みの直後に冷たい感触がおとずれ,その違和感に混乱する。そして目を開けたシッショがわずかに微笑むのを見て,ふいに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「すみません,シッショさん」肩に手を当ててなぐさめるシッショに,アルジは何度も謝った。
「それが土蜘蛛の泥?」「はい」
里に向かう獣車のなかで,義足の隙間に入った泥を外に振り捨てながらアルジは答える。これまでアルジは幾度か,その身体的特徴が幸いし生き延びることがあった。今回は,泥に飲まれた義足が外れ,すっぽりと上半身が抜けたおかげで助かった。あとはヒモでつながった義足をするすると回収したのだ。
ひととおりの掃除が済み,ビンに入った黒い液体を見る。傾けても,重力に耐え,すぐには形を崩さない。まさにゼリーのようだ。半身を飲まれたアルジは,なおわずかな時間で標本を採取していた。ただでは帰らない,執念の結晶である。
その艶めく標本をショムに渡せば,いずれはその性質が明らかになるだろう。だが分析するまでもなく,見覚えのあるその表面に,アルジは自分の考えが確かめられたこと,その事実を話すことに迷う。
「シッショさん」「なに?」獣車を操るシッショは背中で答える。アルジは覚悟もなしに喋ってしまったことを悔やんだ。ごまかしたい衝動にかられた。小声で呟いて,なんでもないです,なんて言ってしまえば,ダモスが生み出す足音や,車輪のきしみで,全てを隠すことができるだろう。ただ,自分でも見えないもうひとつの衝動は真実を伝えたがっている。それが自然とシッショに呼びかけたのだ。そう思った。
シッショは聞き返すことなく,アルジの言葉を待つ。その雰囲気から,話しにくいことの葛藤があるのだとわかっている。
「シッショさん」アルジは再度呼びかけた。「うん」「土蜘蛛は,クビワのお兄さんです」
その言葉にシッショは返事をしなかった。あまりに突飛な考えにあきれたか。それならアルジをからかうはずだ。もしくはクビワに関する面白くない冗談に憤ったか。だとすれば背中で怒りを表すはずだ。それとも,シッショは薄々わかっていたのだろうか。クビワの家族が人ならぬものであることを。
アルジは,クビワに心のなかで謝りつつも,自分だけに打ち明けた秘密,クビワの家族が森の住人であることを語った。シッショは黙ってアルジの話を聞いていた。どんな気持ちでいるかはわからない。けれども無視しているわけではない。その様子に,アルジはそのまま自分の考えを説明することにした。クビワの兄があれほどの異様な姿になるには,身体の大きさを制御する神経が傷つき,変異したか,もしくはその亡骸が何者かによって異形の怪物へと変えられた可能性がある,と。
「何者かって,たとえば?」ふいにシッショ抑揚のない声でたずねる。「わかりません。でも,紫針竜,土蜘蛛,それからシッショさんたちが出会った白いザエル,その三種のモンスターには,何らかの人工的な力が関わっているような気がするんです」
捕食行動とは思えない急降下攻撃,全てを飲み込む破壊性,縄張りでもない場所で侵入者を待ち続ける番人のような態度。それらは対峙する者を見ていない。あたかも背後に観客がおり,それを意識しているかのような気色悪さを放っている。
自然の合理性とか,精緻な法則とか,そういったアルジが当たり前と思っていたこと。それ自体が誤っているかのような,足元がぐらつくような不快感をおぼえる。
「どんなかたちであれ,クビワの兄さんがそんな姿になったのなら,自然に帰してやらないとね」シッショは振り向かずに言った。その言葉には,摂理をねじまげ,クビワから全てを奪った者に対する怒りがこもっていた。
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